【昭和講談】田中角栄「テレビ時代を切り拓いた政治家」 第一回(全三回)

 そもそも「昭和」時代というのは、昭和元年の1926年から1989年の昭和六十四年、この六十四年間のことを指す訳であります。
 ただこの六十四年の間に、戦争による国土荒廃があれば、バブル経済で金満を経験という、実に様々な経験をした時代でもあります。

 その昭和の娯楽と言えば、やはりテレビでしょう。昭和二十八年にNHKがテレビ放送を始め、それから昭和は言うに及ばず、平成・令和と時代が変遷しても庶民の娯楽と言えば、やはりテレビとなるのではないでしょうか。
 このテレビ発展の歴史を紐解けば一人の政治家に辿り着く。それが今回の演題「田中角栄・テレビ時代を切り拓いた政治家」でございます。

 時は昭和三十二年七月十日。第一次岸信介内閣の内閣改造で、郵政大臣を拝命したのが田中角栄で、この時、角栄三十九歳。日本の政治史上最年少での大臣就任でございます。
 さて、この郵政省、今では組織が変わって総務省となっております。当時は郵政の名の通り、先ず郵便に郵便貯金、簡易保険を管轄に持ちますが、さらに通信や電波、そして、放送行政も所管としていた訳です。
 その放送行政では昭和二十八年に、日本テレビとNHKにテレビ本放送の許認可を既に出しておりました。

 昭和三十二年七月十日、田中角栄、郵政大臣就任の夜のことでございます。
 東京・麻布の狸穴町、今の港区飯倉にある郵政省庁舎、その二階の大臣室。十畳は優に超え、応接間をしつらえた豪奢な大臣室に集まったのは田中角栄の懐刀の秘書・ブレーンが十数名。
 田中角栄と言えば、公設・私設問わず優秀な秘書やスタッフを多く抱えていたことでも知られています。
 東京新聞記者だった早坂茂三、地元新潟担当の本間幸一、目白を守るお庭番・朝賀昭、金庫番・榎本敏夫、そして後援会である「陸山会」の女王・佐藤昭など。そのどれもが永田町の政治家面々が影で噂する切れ者揃い。
 
 大臣室の応接ソファに陣取る懐刀たち。彼らを見渡す大臣席に座するのが頭首の田中角栄。
 土方で鍛えた体躯を紺の背広押し込んで、髪は七三、ちょいと重そうな一重まぶたに鼻の下にはちょび髭と、今ならネットですぐ検索できるそのご尊顔。
 そして角栄といえばお馴染みの「まぁ、この~」のだみ声。ドスの効いたその声が大臣室に響き渡ります。
 「やあ、皆、本当にご苦労」

 労を労う言葉が終わるや否や、秘書筆頭、早坂茂三が応えます。
「オヤジ、大臣就任誠におめでとうございます。だが、これからが茨の道。特定郵便局や放送法改正と問題山積みですよ」。田中角栄がこれを聞いて一つ笑った、
 「もちろん承知しているよ。ただ何でも全力でぶつかれば良いという訳でもない。力で押す所、相手の言い分も聞くところ、勘所を押さえて臨むさ」

 田中角栄と言えば、官僚の扱いについては憲政史上随一と言われるほど。その手腕を発揮できることに田中角栄自身が一番期待していたと言っていいでしょう。

 大臣室の隅に立っていた一人の男に田中角栄が声を掛けます。
 「おい中野っ」
 
 この仲野敦は秘書の中でも末席の末席、大学を出たばかりの使いっ走りの様な見習いです。
 「すまんが明日、俺は午前中に省の訓辞があるから、午後一番に一階の郵政省の表札の隣にある『全逓』の看板をここに持って来て置いてくれ」

 これを聞いた中野驚いた。「全逓」というのは郵政省の労働組合「全逓信労働組合」でございます。
 「労働組合の看板を持ってくるんですか?」
 「そうだ。簡単な仕事だろう」

 中野はもちろん、大臣室にいた面々も顔を見合わせました。さて田中角栄郵政大臣、その真の狙いとは。

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