【昭和講談】人生幸朗「ボヤいてナンボじゃ!」 最終回(全三回)

 戎橋松竹の舞台で漫才に全力を注ぐ人生幸朗でございますが、最後の出番「大トリ」が遠い日々が続きます。

 そんな中、昭和三十二年一月、戎橋松竹が閉館いたしますと、今度は、同じ松竹の系列である千土地興行から声がかかった。
「人生さん、ウチの歌舞伎座の地下の劇場に出ませんか?」

 歌舞伎座というのは、「上方歌舞伎の殿堂」とも呼ばれる大阪歌舞伎座のことでございまして、大阪ミナミ千日前の、現在はビックカメラがある、その場所に、当時建っておりまして、その地下に、映画館を改装した演芸場がございました。

 さらに、千土地興行は、戎橋松竹閉館を機に、出演していた芸人を引き抜こうと動いておりまして、その中に人生幸朗・生恵幸子も入っていた訳でございます。

 戎橋松竹の閉館を大変心細く思っていた人生幸朗。この千土地の地下劇場出演の申し出に、

「ほんまおおきに。誠心誠意頑張らせて頂きます」

 深い感謝を表して、二つ返事で乗っかった。
 改めて漫才に専心する二人、徐々にではございますが、二人の名前も少しずつ売れ始め、最後から二番目「モタレ」を務めることも増えて参ります。

 そうなると楽屋での順列も、遥かに高いものになってくる訳でございまして、用意される鏡は個別のものとなり、舞台後の風呂の順番も早まり、楽屋の存在感も際立って参ります。
 しかし、地下劇場の「大トリ」という檜舞台へは、まだ届かないのでございます。

「ええ加減にせえ! このド下手、クソ大根」

 楽屋中に響く、人生幸朗の罵倒。
 この罵倒を生恵幸子は決して口答えせず黙って受けております。

 ボヤキ漫才というのは、偉そうに吐き出すぼやき、をツッコミで強烈に落とし、お客の笑いを引き出しますが、それ故にツッコミの役割が非常に大事になって参ります。
 しかし、生恵幸子はそれが弱く、メリハリが出ない訳でございます。

 何かにつけ、相方を罵倒する人生幸朗と、必死についていく生恵幸子。二人の漫才に対する姿勢は仲間の芸人も大いに認めるところでございますが、人生幸朗と生恵幸子とのレベルの差が漫才に現れ、舞台の最後を締め括る、劇場の大トリが遠いのでございます。

 試行錯誤を繰り返す中、昭和三十四年のことでございます。大阪歌舞伎座が、千日デパートへと改築され、地下にあった劇場が、地の上、六階へビュンと上がり、そこで、「千日劇場」となって、リニューアルいたします。

 さらに、それを契機に、人生幸朗・生恵幸子は、その劇場主の千土地興行と専属契約を結びます。
 初めての専属契約。契約金は五万円、ギャラが日建てで千八百円。二人にとっては目を疑う高額提示に、劇場同様、天にも昇る気持ちでございます。

 さらに漫才に力を入れる二人。そんなある日のことでございます。
人生幸朗が舞台で台詞が出ずに詰まった。

「うう……、それ、あれや……」

 口ごもった人生幸朗に生恵幸子が思わず、

「はよ言わんかいっ」

 本心混じる、罵倒の様な低い声。その瞬間、客席が沸いた。
 舞台を降りた時、女流漫才師の花柳貞奴から声をかけられた。

「幸子ちゃん、今のは良かったで。前の田鶴子さんみたいやったで」

 この言葉に喜んだ生恵幸子。自分は下手だと自覚する彼女にとって、前の相方と比べての褒め言葉、それは生恵幸子への最大の賛辞となったのでございます。
 ”前の相方とそん色のないツッコミだった”、その一言で立ち込めていた霧が晴れ、ようやく自分の漫才に、自信を持った瞬間でございます。
 それからというもの、生恵幸子の口からは、

「この泥ガメ!」
「この張り子のトラ!」
「ええかげんにせえ、ヨダレクリ!」

 散々に、相方をボロカスにする言葉が出ていたのでございます。

 さあ、芸に磨きをかけたコンビは快進撃を続けると、三十五年の四月春公演でございます。
 ついに、劇場入場口、公演看板、最後のコンビに、二人の名前が大きく載った。夢にまで見た、念願の大トリでございます。
 看板の前に立つ二人。

「ついにやったなお父ちゃん」

 生恵幸子の静かな言葉に、人生幸朗、ただ「うん」と頷いただけ。
 しかし、その看板の前をいつまでもその場を離れず、立っていたそうでございます。

 大トリを務め一年が過ぎた頃、三十六年の三月のことでございます。
 阿倍野のアパート「光洋荘」、二人の自宅に電話がかかってきた。電話の相手は吉本興業の興行部でございます。
「人生幸朗さん、吉本と専属契約して漫才しまへんか」

 電話口での思わぬ誘いでございます。
 もちろん、と二つ返事で願い出る、とはいかないのが人生幸朗でございます。

「すいませんが、私にはここまで面倒を見てくれた千土地興行への恩義もございますので、その話はお断りさせて頂きます」

 なんと人生幸朗、吉本の誘いを断ってしまいます。
 この千載一遇の機会を無下に断れば、次はないかと思えば、その翌年も契約時期にまた吉本から電話が掛かって来た。が、人生幸朗の決意は変わらない。

「申し訳ありませんが、ここまで人気が出るまで面倒見てくれた千土地興行を裏切るなんて、できまへん」

 これで吉本移籍も終わりかと思われた三年目の昭和三十八年、吉本から、今度は専務の橋本鐵彦が、二人の住む、阿倍野の光洋荘のアパートまで訪ねて来た。
「人生はん、あんたの気持ちもよく分かりますで、でも、千土地はんも充分儲けてまっせ。もう十分恩義は果たしたんと違いますか」
「そうかも知れませんが、それでも私の気持ちは変わりません」

 あくまで、かたくなな人生幸朗に、橋本鐵彦、最後の忠告を口にした、
「どちらに乗ろうがあんたの判断や。でもな、あんた、ここでバスに乗り遅れたらアカンで。もう一度よく考えてみいや」

 この最後の忠告に人生幸朗の覚悟が揺らいだ。
 名前を入れるだけだった千土地興行の契約書を畳み込むと、その事務所へ出かけ、筋を通すと、その足で吉本を訪れ契約書に判を押したのでございます。

 とうとう吉本興業と専属契約を結んだ人生幸朗。この時、五十五歳でございます。

 昭和三十八年の六月、ついに、演芸王国吉本へ移籍した人生幸朗。
 その翌月には、今の「なんばグランド花月」の前身となる、南海通り沿いに建つ「なんば花月」が開場した。
 席数七〇〇を優に超え、立ち見を入れると千人以上が入る、「なんば花月」は、大阪きっての大劇場でございます。

 吉本移籍で、人生幸朗・生恵幸子はモタレからの船出でございます。だが二人には焦りなどなかった。

「お父ちゃん、また一からやな」
「ワシらは、吉本の名前で売ってもろたんやない。自分たちで腕を磨いて来たんや。どうということない」

 その言葉通り、劇場に立てば、二人は大いにボヤキ倒した。

「まあ、みなさん聴いて下さい。昨今の唄をよく聞いてみると腹立つことばかりでっせ」
「何が腹立つの」
「あの舟木一夫の『学園広場』を聴いてごらんなさい。“空に向かって挙げた手に若さがいっぱい飛んでいた”。若さが飛ぶか? ほなワシは年々若さが飛んでってオジイになったんか!」
「頭の毛ぇは、年々抜けていってますで」
「やかましわ!」

 二人のボヤキに劇場は沸きに沸いたが、それでもさすが吉本、二人がトリを取るのに二年かかって、昭和四十年、二人は念願の大トリを勝ち取った。
 それがよっぽど嬉しかったか、

「トリから外されたら、ワシは吉本辞める」

 そう豪語して周囲を驚かした人生幸朗。
 しかし、その言葉が頷けるほど、劇場でボヤキ倒して人気をさらったのでございます。

 昭和四十年からテレビ番組への出演も果たし、人気に火が付いた人生幸朗でございますが、しかし、思わぬ時代の波がやって参ります。


 時は昭和四十五年前後、テレビ人気による若手の台頭でございます。
 笑福亭仁鶴、桂三枝、コメディNO.1、中田カウス・ボタンら若手芸人の人気が爆発。若いファンが大挙して劇場へ押し寄せた。
 これまで見なかった十代、二十代の客で膨らむ劇場の、その雰囲気が一変した。

 さらに、若い客は、ベテラン芸人の舞台など一瞥もせず、友達とお喋りに興じる始末でございます。

 この事態に大御所芸人の苦言が漏れる。
「やりにくうてしゃあないわ。こっちを見んとペチャクチャペチャクチャと。ほんまにかなんわ」

 だが、こんな状況でも、人生幸朗は動じない。
 舞台に上がると生恵幸子に唄を歌わせ、最初の数分をざわつく客を落ち着かせる時間にすると、落ち着いたところでボヤキを始める。

「いやほんま、最近の唄を聞いとったら腹立つことばっかや」
「そろそろ歌の方に回って来まっせ」
「西郷輝彦の、あの歌、『海はふりむかない』って。当たり前やないか!」

 ボヤキ漫才で若い客も笑わせ、ビッチリ二十分演じ切ると、拍手を浴びて舞台を降りてくるのでございます。

 そこに立ちはだかったのが、飛ぶ鳥落とす勢いの漫才コンビ、横山やすし・西川きよしでございます。
 舞台に立てば拍手と笑いの渦を巻き起し、予定の十五分など関係なく、やすきよの空気を作って二十分ビッチリやって降りて来た。

 この若手コンビの態度に人生幸朗、嫌な顔一つせず舞台に上がると、その上を行く二十五分間、ボヤキ倒して、客を爆笑させて悠然と舞台を降りて来た。

「フンっ!」

 鼻息一つ上げて、横山やすしの横を通る人生幸朗。

 この反撃に、横山やすしもカチンときた。
「おい、キー坊、ワシらも負けてられるか!」

 さあ、次の舞台でございます。やすきよは汗びっしょりの熱演で、三十分という舞台を演じて降りてきた。
 すると今度は人生幸朗、三十五分ボヤキ倒した。
 売られたケンカをボヤキで返す、人生幸朗、明治の男の心意気でございます。

 さあ、やすきよの反撃はいかにと思われたその瞬間、劇場支配人が飛んできた。
「ええ加減にせえ、お前ら。どんんだけやんねん! 客から追加料金でももろて来いや!」

 あっけない幕切れとなったのでございます。

 芸に厳しく、義理に堅く、人情に厚かった人生幸朗。
 彼の人柄を示す逸話に刑務所への慰問漫才もございまして、亡くなる昭和五十七年までの二十七年間、ギャラの全くでない無給の刑務所慰問漫才を途切れることなく続けていたといいます。


 遅咲きながら、劇場、茶の間の人気者となった人生幸朗。
 今はもう聞かなくなったボヤキ漫才でございますが、昭和の時代、そのボヤキと共に歩んだ、昔気質の芸人がいたというお話でございました。
 長い一席、お付き合い頂きましてありがとうございます。

                                完

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