【昭和講談】吉田秀雄「放送電波に広告を載せろ!」 第一回(全三回)

 さて、最近生まれました新しい職業に、ユーチューバーというのがございます。
 動画サイトのユーチューブで、自分の動画の視聴回数によって収入になるというもので、インターネット時代の新しい仕事と言えるでしょう。

 このユーチューバー、その収入の源は? と言えば広告料でございます。
 動画サイトに入る広告収入をユーチューバーに分配する仕組みで、つまり、テレビやラジオと言った民間放送、民放と同じ広告料収入でございます。

 この民放のシステムが動画サイトでも活用されている訳で、そうなると、この元の仕組み、民間放送、商業放送の礎を確立したのは一体いつ頃で、どこの誰なのかが気になるところでございます。
 それが今回の演題、電通四代目社長、吉田秀雄でございます。

 吉田秀雄、昭和三年東京帝大経済学部卒業のエリート。
 卒業後は株式会社日本電報通信社、つまり、電通に入社いたします。と、言えば聞こえはいいが、実際は、この吉田秀雄、在学時は学費に困る苦学生、卒業間近に始めた就職戦線は不合格の連続だったという有様。

 だが性格は明朗にして勇猛果敢。
数多の失敗を苦ともせず、あの手この手でようやくのこと電通の面接に潜り込んだ。
「それで君は、広告といえばどんな広告を思い浮かべるかね」

 そう尋ねられた吉田は元気良く、
「はい、電柱広告です」
「電柱? 君は、新聞は読まんのかね」
「新聞、読みます。新聞広告ですね。新聞広告は……、もっぱら求人を見ています」

 こんな問答だったとかで、エリートとは言い難い男だったということです。

 無事電通に就職した吉田秀雄。地方新聞を担当する地方課へ回され、広告外交員がひっきりなしに出入りする、魚市場の如き喧々囂々の地方課の一席で、広告原稿の配送やら料金収集、時には大陸、満州の新しい広告のため役所に出向くなど、己の天職となる広告業を存分に吸収して参ります。

 さて、吉田が電通に入社したその当時、大正から昭和にかけて、広告代理業というものは「広告取り」と呼ばれ、数多ある職種の中でも全くの最下層、社会から蔑まれた仕事とされておりました。
 ある新聞社のビルには「紙屑収集と広告屋は裏へお廻り下さい」と書かれていたというから、その程が伺えるというものです。

 その当時は、広告の主力商品は新聞広告でざいまして、「広告取り」たちは、大手、地方関係なく新聞社に通い、広告のスペースを仕入れては、広告を出したい広告主に売りさばくという、広告スペースの売買が主でございました。

 新聞社から広告スペースを安く仕入れて、広告主を相手取り口八丁手八丁、なだめたりすかしたりして取り入って、なんとか貰った広告を、広告スペースに放り込んでいく。
 仕入れ値、売値は自分勝手に帳尻合わせ、広告手数料もその場で決めては儲けを出す。広告屋というのは、新聞社からも、広告主からも実に得体の知れない卑しき職業だった訳であります。

 そんな、まだまだ未開の広告業界で、吉田秀雄は率先して仕事を覚え、広告の勉強に励み、人脈も作り、さらには大きな会社からも出稿を貰いと、グングン頭角を現していった訳でございます。
 しかし、心を痛めるのは広告業の下賤さです。

「個人プレーが横行し、このままでは広告代理業は何時まで経っても職業として認められないではないか」

 自ら声掛けして仲間で始めた勉強会でも度々、吉田は自分の思いをぶちまけます。
「広告は事業を活性化させる油なんだ。そのために広告業がもっと勉強しなければならん。今の如き、個人勝手で動いていては将来はないぞ。広告の未来のためにも、新聞の広告料、代理店の手数料、これら料金の定価を公に定め、会社同士がそれを遵守し、健全競争を促す様にしなければならんのだ」

 頃は昭和十六年、大東亜戦争が戦火を広げようという時代です。
 日々の暮らしでは米や味噌、油といった生活必需品に統制がかかり、紙もその対象でございました。もちろん、新聞も新聞紙という位だから、紙の統制は、そのページ数に多大な影響が及ぶ訳でございます。

 十ページだったものが六ページになり、六ページが四ページ、最後は二ページと減っていく有様に、吉田はたまったものじゃないと単身、所轄である商工省物価局へと乗り込んだ。
「このままでは新聞とその広告は死に絶えてしまいます」
「何を言うか。戦地では大日本帝国の兵士が命を賭してお国のために戦っているんだぞ! お前たちも少しでも無駄を省く努力をせんか!」

 まさに逆ギレ。この時代でも逆ギレがあったんです。だが吉田には計略があった。
「無駄を省くというのなら、今、飽和状態にある新聞社の統合と、広告料金の公定価格算出に着手すべきです」
「なんだと?」
「広告が少ない現状に対し、新聞社が多過ぎるのです。それを統合し、さらに新聞社に対し広告料の公定価格を提示し、健全競争を促せば良いのです。これを今すぐしなければ、新聞社は共倒れです」

 ここにきて商工省の役人も耳を傾けてきた。
「しかし、統合と言っても読売、朝日、毎日といった大手紙をお前は説得できるのか」
「はい。販売部数や購買層、売上などの統計をまとめ、納得できる統合の基準資料を作成すれば必ずや達成できます!」

 さあ、吉田秀雄は、戦時中の物価統制の混乱に乗じて、新聞社の統合と新聞広告の公定価格の算出に乗り出しました。
 連日の様に商工省に出入りし、新聞協会を説得し、売り上げなどの統計を出させ、資料を作成し、それを持参し各新聞社を説得して参ります。

 戦時中の切迫感を追い風に、粘り強く交渉を重ねること一年、昭和十九年の四月、とうとう新聞社百八十六社を十二社に統合し、その収入の源泉である広告料金の公定価格をも制定したのであります。

 これで勢いに乗ると吉田は、さらに今度は、広告会社の仲介手数料の公的価格にも切り込んだ。
 この改革に、広告会社は一斉には猛反発。しかし、ここでも吉田が粘り強い説得を繰り返し、とうとう広告手数料の公定価格を制定致します。

 この公定価格が、戦後の今も使われる広告代の15パーセントという手数料で、これは吉田秀雄の熱意の賜物でございます。

「よし、これで広告業は産業になる。広告の未来が拓けたのだ」
 吉田秀雄の広告への情熱はますます燃え盛って参ります。


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