【昭和講談】吉田秀雄「放送電波に広告を載せろ!」 第二回(全三回)

 昭和二十年八月十五日、日本に玉音放送が流れ、終戦が告げられたこの日、吉田秀雄は焼け残った電通の社屋ビルで、玉音放送が終わるや否や、仲間に向かって腹の底から叫びます。

「戦争は終わった。だが、日本の広告はこれからだ!」

 戦争によって東京は見渡す限り家も、ビルもほとんど焼け落ち、壊滅状態で、電通の社員たちも社屋周りの残骸整理に精を出す日々でございます。
 そんな状態の中、暑さも過ぎた十月に、吉田は丸の内にある東京商工会議所に呼ばれます。

 商工会議所の会頭室で、吉田を出迎えたのは商工会会頭の藤山愛一郎でございます。そして、その藤山から、吉田は驚きの提案を受けるのです。
「吉田君、GHQが電波を民衆に開放するということだ。民衆によるラジオ放送が日本で出来るようになる。どうだ君、ラジオ放送をやってみないか」

 この提案に、吉田はニヤリと笑みを浮かべた。
「はい。その話は私も耳にしていました。これはまたとないチャンスです。ラジオは必ず成功しますよ」

 ラジオ放送というのは、大正十四年、既にNHKが放送を始め、早慶戦の野球中継や寄席からの演芸中継、そしてラジオドラマと、人気番組を送り出し、広く大衆に認知されておりました。
 しかし、太平洋戦争では軍部の戦意高揚に使われたこともあり、GHQはNHKのラジオ独占を問題視いたしました。
 そこで、もっとラジオ電波を広く民衆に開放されるべきだと判断したという訳でございます。

 ラジオ電波が民衆に開放される。しかし問題が一つありました。その収入源です。
 NHKはご存じの通り、受信料をその収入源としておりますが、新しく始まるラジオではその収入の全てが、広告料のみということなのでございます。

 広告料だけでラジオ全てを運営するなど、当然ですが、そんなのは誰もやったことがない。
 果たして受信料なしでやっていけるのか。設備投資に人件費、それに何より番組を制作する費用も莫大にかかります。
 それを賄うだけの広告料は見込めるのか。先行きの見えない広告によるラジオ放送、そこで求められたのが広告のエキスパート、吉田秀雄でございます。
 
 電通に戻るや否や吉田は当時の電通社長・上田碩三に民放着手を直訴致します。
「ラジオの可能性についてはもう既にNHKが十分に証明しています。民間のラジオはこれから大いに発展します。千載一遇、電通もこれに参加すべきです」

 さあ、こうなると話が早い。東京商工会議所が音頭を取り、電通も率先して加わり、まだ焼け跡からの復興もままならない東京に、新ラジオ会社「民衆放送」が立ち上がったのでございます。


 しかし、GHQの電波開放の承認が遅々として進まない。この状況に、ラジオ会社「民衆放送」の発起人が一人、また一人と離れて参ります。

 このままでは夢の民放ラジオは立ち消えの危機でございます。そこで吉田はラジオ会社「民衆放送」を電通に引取り、電通ただ一社だけでラジオ研究に取り組み始めます。
 電波発信機器を買い取り、ミキサー室を用意し、いつ始まるか分からないラジオ放送のために、その準備を電通だけで孤軍奮闘、継続したのであります。
「何? 困難だと? 広告の未来を築くんだぞ。これくらいのことは乗り越えらずにどうする」

 だがしかし、吉田の意気込みとは裏腹に、日ごと費用は嵩み、周囲からも「時期尚早」「勝ち目のない戦」と非難の嵐。とうとう「民衆放送」は縮小へ追い込まれてしまいます。

 時は昭和二十二年六月、吉田秀雄は電通の四代目社長に就任いたします。電通の社長とは言いながらも、吉田は、会社の資金繰りのため銀行、財界を奔走する日々でございます。
 その中でラジオ放送の逆風は以前にも増し、強く吹き続けておりました。あまりに強い逆境の中で、吉田社長は全てに決着をつけるが如く、部下に言い放ちます。
「よし、民放ラジオの今後について、私の決断を発表したい。皆を会議室に集めてくれないか」

 この吉田の一言に、電通社内がざわつき出した。ここまで引っ張り続けたラジオ研究だが、いよいよ事業撤退の言葉がでるんじゃないか、そう誰もが口々に言い始める。

 言われた通りに会議室を用意すると、詰め掛けた社員が二百有余名。男どもで溢れ返る室内は熱気、人いきれで異様な空気でございます。
 会議室の前方には演台とマイクが用意され、その横には、沈黙、瞑目、腕組み座る電通社長、吉田秀雄の姿があった。

 ざわつく室内がようやく静まり返るや、吉田は目を開け立ち上がり、演台に立つと、台をバンッと大きく叩き、声を上げた。

「諸君、ここにいる諸君らの半分は死ぬであろう。いや、死なないとしても寿命は縮むはずだ。だが、この商業放送はそれだけの価値のある仕事である。新しい仕事を作り上げることは誠に難しい。しかし、君たちは先駆者としての栄誉を担うのだ。諸君、この私と共に生き残って先駆者となろう」

 この吉田秀雄電通社長の檄に会議室は沸きに沸き立ったのであります。


 吉田秀雄がラジオへ取組み苦節四年の昭和二十四年、国民に食料、衣服が行き渡ると、民衆の娯楽への欲求も高まって参ります。すると「新しいラジオが出来ると聞いたがそれはいつじゃ」、民放ラジオへの期待もあちこちで聴かれる様になって参ります。

 そうなると、ラジオ放送への出願する企業、団体も続出し、その数五十社を超えて参ります。
 その中には読売、朝日、毎日と大手新聞の名前もあったのでございます。

 機は熟した、吉田秀雄はこれを見逃しませんでした。
「よし、読売、朝日、毎日、そしてウチが合同でラジオ会社を作れば他を寄せ付けない強大なラジオ会社になる。それだけじゃない。ラジオの広告集めでも各大手紙の伝手を頼りにできるじゃないか」

 大手三紙の広告主を巻き込めば広告料の高値安定も狙えるという、吉田の慧眼光る戦略でございます。
 しかし、読売、朝日、毎日ともライバル同士、合同会社なぞ以ての外と、全く応じようとしない。
 この難問に吉田は財界の大物、日本化薬株式会社の原安三郎社長に相談致します。


 日本化薬の社長室、原は社長椅子に座り、火鉢に手を当て、じっと吉田の話に聞き入ると、唇の端を上げニヤッと笑い、
「吉田君、実は私も三紙のラジオ会社の発起人に名を連ねておってね、幾らか出資しておるんだよ。でも、この仲間内ではね、ラジオの成功を不安に思う者がほとんだよ。どうだろう、この発起人たちの方に大手三紙と電通の合同の話を持掛けてみては。金を出している発起人がせっつけば、読売、朝日、毎日の大手三紙といえど、きっと折れるだろうよ」

 出資者の方を落とす。「その手があったか!」、早速吉田は発起人にアンケートを取り始めると、大手三紙のそれぞれで会社がいいか、それとも三紙と電通を合わせた合同会社がいいか、という二者択一を迫ります。
 発起人たちはもちろん、共倒れの可能性の少ない合同会社設立を選ぶ訳でございます。

 こうして発起人の同意を得た吉田秀雄は、読売、朝日、毎日にラジオ会社の統合を迫り、とうとう大手三紙と電通によるラジオ会社の話をまとめてしまいます。
 そして、昭和二十六年一月、ついに、統合した新ラジオ会社「株式会社ラジオ東京」が誕生した訳でございます。

 吉田が焼け跡の日本でラジオ電波開放の話を聴いてから、ラジオ会社の創設まで、苦節を重ね六年の歳月が流れていた訳でございます。


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