【昭和講談】人生幸朗「ボヤいてナンボじゃ!」 第一回(全三回)

 えぇ…、ここからは錦秋亭渓鯉で、昭和時代の埋もれた歴史を掘り起こす「昭和講談」でお付き合いの程お願いを申し上げます。

 さて、昭和から平成、令和へと時代が変わりまして、その間に消えてしまった、或いは、久しく見かけなくなったものも多々ございます。
 芸能でもそうでございまして、その一つが「ボヤキ漫才」というもので、社会問題や政治、世相に世間の流行りものなんてものをぼやいて落とすのがこれ、「ボヤキ漫才」でございます。

 この名人とも呼ばれたコンビが上方漫才の人生幸朗・生恵幸子の夫婦漫才師でございまして、昭和四十年代、還暦超えた人生幸朗が、ボヤキ漫才で劇場を大いに沸かしていた訳でございます。

 人生流ボヤキ漫才の代表的なネタが、戦後すぐに大ヒットした並木路子の「リンゴの唄」のぼやきでございまして、

「あの、戦後の混乱期に我々の心を和ませてくれた、並木路子の往年のヒット曲『リンゴの唄』があるやろ」
「ええ曲やね」
「それでもぼやかなしゃあない」
「何をぼやくの」
「唄の文句を見てみい。『リンゴは何にも言わないけれど』。当たり前やないか! そんなもん、リンゴが物言うたら、八百屋うるそうてしゃあないぞ」

 こんな感じでございます。
 この人生幸朗、舞台姿は、ビシッと決めた背広姿で、瓶底眼鏡と言われる度の強い眼鏡を掛け、口は真一文字に、実に気難しそうな顔をした漫才師でございました。

 生まれは明治四十年というから、大正以前の明治の男で、性格も意固地なところがございます。
 心の中で「悪かった」と思っていても、決して謝らない。気に入らなければ平気で家族に手を上げる。

 芸のためなら女房も泣かす、の歌の文句を地で行くような、その癖、外では思ったことも言えずブスッと黙っている様な、まあ、本当に難しい男でございます。

 そんな、ボヤキ漫才で一代を築いた人生幸朗でございますが、その道のりは、不器用で義理人情に厚い男の生き様そのものでございました。


 時代は昭和九年、人生幸朗二十七という頃でございます。
 この時、人生幸朗は漫才師・都家文雄に入門いたします。
 この都家文雄、政治や世相をネタにしたボヤキ漫才で名を上げた漫才師でございまして、その都家文雄に弟子入りした人生幸朗は、そこで師匠から都家文蔵という芸名を頂戴いたしました。

 師匠宅の六畳間、都家文雄は、着物姿で、火鉢を横に置き、両手をついて頭を下げる弟子・文蔵に言い渡します。

「文蔵、ええか、内弟子修行中、色恋はならん、結婚なんぞもっての外やからな。判ってるな」
「はい、師匠。もちろんでございます」
「よし、きつく言っとくで」

 しかし、人生幸朗こと都家文蔵、この時、既にキミヱという三ツ下の女性と結婚していた。
 だが一度「判りました」と言った手前、今更正直に白状出来ないのがこの男でございます。まあしかし、嘘はすぐばれるもので、

「どういうことや文蔵!」
「すんまへん、師匠」

 弟子入りの時と同様に両手をついて、謝る文蔵でございます。

「最初に言うたやないか、結婚はあかんと」
「すんまへん、そん時にはもう所帯を持ってまして。キミヱとはすぐ別れます!」
「結婚してしもてるものを今更『別れ』なんて言えるか。どあほ!」

 ようやく許しを得た文蔵でございますが、肝心の漫才の方はというと、一向にパッといたしません。
 その当時の相方は、妻のキミヱでございまして、これが下手で下手で文蔵はその都度爆発いたします。

「ええ加減にせんかいっ、このドアホ!」
「お前は本当のボケや!」

 散々な酷い仕打ちの果て、結局、妻のキミヱをカフェに働きに出させ、代わりのツッコミ役を探します。

 すると、以前に夫婦漫才をしていた高田田鶴子という女性と知り合った。
 この高田田鶴子、以前に夫婦漫才をしていただけあって、ツッコミの間も良く、互いに息の合ったコンビとなります。だがここで文蔵の悪い虫が顔を出すと、ついにこの田鶴子に手を付けてしまった。
 これを察したのが妻のキミヱで、あろうことか、カフェで稼いだ金を持って家を出ていってしまいます。

 当の文蔵は、キミヱに悪いことをしたと思っても、決してそんな素振りを見せず、
「こうなったらしゃあないわ」

 そう割り切って、とうとう高田田鶴子と「新たな相方兼女房」として所帯を持ってしまいます。

 しかし、ここで晴天の霹靂。昭和二十年二月末、何と、三十七歳の文蔵の下に、召集令状が届きます。
 それまで慰問団で大陸に渡ったことはありますが、今度は兵隊としての呼び出しでございます。

「都家文蔵、三月二日、三十三部隊に入隊いたしますっ!」

 兵隊たちから起こる万歳の声。しかし、都家文蔵、心の中で
「何が万歳や。ちっともめでたい事あらへん」

 そう心中で一人ぼやき、家に残した妻と子供は文雄師匠にお願いし、後ろ髪引かれつつ、戦地・満州へ赴いたのでございます。

 終戦が二十年の八月ですから、都家文蔵の兵隊生活はわずか五か月ほどでございます。
 しかし、運の悪いことに満州でソ連軍に捕らわれの身となり、そのまま一年三か月、北の大地・シベリアで捕虜生活と相成ります。

 冬はマイナスという極寒の地・シベリアで、都家文蔵、極度の栄養失調から全身真っ青、顔も手足も膨れ上がり、毎晩うなされ、地獄の淵を彷徨いながらも、

「くそう、こんなところで死んでたまるかいっ!」

 その一念で、這いつくばって日本に帰って参ります。
 しかし、文蔵を待っていたのは聞くに堪えない女房・田鶴子の痴情の噂。

「何でも文蔵とこの田鶴子と、都家文雄が出来てしもてるらしいで」

 さあ、文蔵、気が気でない。
 しかも、それを裏付ける様に、大坂に戻って師匠の下へ顔を出しても素っ気なく、嫁の挙動も不自然ときた。

 あの戦争から必死になって帰ってきたらこの仕打ち。文蔵、ついに怒髪天を突き、田鶴子の顔を張り飛ばし、寛一お宮の一節ではないが、

「ええい、この売女、よくもワシを裏切ってくれたな。このド畜生め。よくもよくも…、お前会いたさ、子に会いたさで、三途の川の船便を、途中で降りて、泳いで戻って帰って来た、このワシに、なんと許せんその仕打ち。さあ、何があったか洗いざらい吐かんかい」と、裏切りの妻にググッと迫る……、とは、とても出来ない、都家文蔵。

「どないしたらええねん、もう堪忍してくれやぁ……」

 情けなく項垂れるばかりでございます。

 憂さを晴らしに酒場で飲んでも、こんな時、悪酔いするのがオチでございます。
 カウンターでぐったりしている文蔵。見かねて店の主が声をかける。
「お客さん、ここで寝られたらかなんがな、しっかりして下さいな」
「ううん…、うるさい!」
「お客さん、…ほんま、かなんなぁ」

 そんな時でございます。店内の演歌師が、並木路子の「リンゴの唄」を流し始めた。

〽赤いリンゴに唇よせて だまって見ている青い空 リンゴは何にもいわないけれど……

 それを聴いた文蔵が思わず声を上げた。
「当たり前やないかい。リンゴが物言うか!」

 店内がクスっと笑う。それを聴いた文蔵、さらに続ける。
「そんなにリンゴが物言うたら、八百屋の店先がうるそうてしゃあないわ」

 この言葉に、店の客が噴出すと、口々に続けた。
「確かにそうや」
「ウチのカミさんよりもやかましいで」
「しまいに、切られたら『痛い』言いよるで」

 それを聴いた文蔵はにわかにハッと起き上がり、

「これやっ!」

 何たる怪我の功名か。この瞬間、これこそまさに、都家文蔵流、つまりは人生幸朗流のボヤキ漫才が生まれた瞬間でございます。


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