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私は神を信じない(不可知論的視座)

 私は神の存在を信じない。有神論を以て生きなくとも、十分に幸せで、大いに意義ある人生を送ることができると考える。神の存在が信じられない限り真の幸福は得られない、とする輩もいるが、私は心から賛同できない。寧ろ私は、神の存在が創造や思考を邪魔し得ると感じている

 私は不可知論者である── 無神論の標榜に至るに叶わぬ不可知論者である:はっきりいって神の存在を正確で完全な論理を以て否定できないからだ。目に見えぬ者に完璧な否定を与えるのは実に難く、不可能であると(今のところ)いわざるを得ない── おそらく私の死後も永く変わらぬことだろう。しかし同様に、神の存在を肯定することもできないはずである。

 思うに神というのは、いつからか人が考え出した一種の概念に過ぎない。例えば精神については、多くの人が(違和感なく)その存在を肯定している── 精神は心に置換することもできよう。が、精神というのは可視化できず、存在自体を美しく証明することは果たして可能なのか。まさしく唯物論的思考を意味するが、脳髄という一定の大きさを持つ物質が、その内部において化学反応した結果を、便宜的に精神と呼んでみただけであって、これを取り出し現に触れて確かめることはまったくできない、といって間違いない。

 無神論も唯物論の一種と考えて好いだろう。この世に実在する、見て確かめられるあらゆる事物こそが真理であるとすれば、間違いなく神はその存在について検討するに値しない。神も精神も、人が自らその存在について内的に理解するために必要と見て生み出した、一種の概念に過ぎないのである。この見方について、無形についての概ね正しい見方である、と私は考えている。

 ただ、目に見えず触れて確認できぬものを遍く信用しないとすると、ともすれば貧しい思考に堕するかも知れないと思いもする。手に取れず明らかでないものこそ、人を興奮させたり好奇させたりする。そうして人を成長に促しもすると。故に、神の存在を信じないにしても、仮に存在するとしたときに起こり得る、私たちの内的事象に思慮を及ばせることには、十分に価値がある

 少なくとも私においては、創造や思考は無神論に立脚するからこそ活発化するという感がある。

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