「聴く」ということ「待つ」ということ 第106回e-cala cafe

授業における教師の役割に「聴く」と「待つ」という行為があります。
今回は、この「聴く」ことと「待つ」ことについて考えたいと思います。

①「聴く」ことを評価することの難しさ
以前、お世話になった大学の先生に言われた言葉です。
「聴く」ことを評価することが難しいです。なぜなら、みな、聴いているからです。聴いている内容は人それぞれです。Aさんのベクトルでは聴いていないと見なしても、Bさんのベクトルでは聴いていることになることもあります。何を聴くかその人の教育観や指導観に大きく影響します。また、聴き方も人それぞれです。静かにしているからといって聴いているとは限りません。姿勢が悪いからといって聴いていないとも限りません。さらには、他のことをしていても実は聴いているということもあります。だから、「聴く」ということを評価することはとても難しいのです」

②「聴く」という行為
鷲田清一氏は、「聴く」という行為を受動的能動性をもった行為だと述べています。
『「聴く」ことの力』では、「苦しみは苦しみのなかにあるそのひとが口ごもるもの、呑み込むもの。あるいは、忘れようとするもの」「苦しみのなかにあるとき、ひとはことばで訴えるどころか、逆にことばを喪ってゆく」「「苦しみの苦しみ」において、最初の苦しみが苦しみのなかにあるそのひとから聞こえてこないがゆえに、それは聴かねばならぬものである。引きこもりそのものを聴く、そういう耳にあって、はじめてその苦しみは聞こえるものとなるのだろう」「苦しみを口にできないということ、表出できないということ。苦しみの語りは語りを求めるのではなく、語りを待つひとの、受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて」
と述べています。
授業における「苦しみ」とは、「わからなさ」ではないかと考えます。子どもたちは「わからなさ」を抱えた時、「恥ずかしい」「自分だけかも」「ばかにされる」などといった感情に襲われ、内に内にとその「わからなさ」を吞み込んでしまいます。それでも、鷲田氏が言うように受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて、声になると思うのです。教師は、そのかろうじてつぶやきとして漏れた「わからなさ」を聴き逃さないことが大切なのだと思います。

③「待つ」ということ
子どもたちは「わからなさ」を漏らすまで、教師は待たなければなりません。その意味で、「待つ」という行為も受動的能動性をもった行為だと言えます。
鷲田氏は『「待つ」ということ』で、次のように述べています。「「待つ」というのは、その意味で「応え」の保証がないところで、起こるかもしれない関係をいつか受け容れよう、身を開いたままにしておくことである。じりじりするほどゆっくりとしか流れないその時間が、ついに無意味となること、つまりは「待つ」時間が奪われることを見越してなお「待つ」というのは、だからけっして受け身の行為ではない。けっして無為ではない」「相手からの呼びかけやなんらかのリアクションをひたすら待つ、それは、あたりまえのことだが、ひたすら受け身でいることである。事のなりゆきを相手にあずけることである。思いの支点をちょっとでもじぶんのほうに引き寄せれば「待つ」は破綻する」

④「聴く」ことは「待つ」こと
さらに、鷲田氏は次のようにも述べています。
「聴くということがだれかの言葉を受け止めるこであるとするならば、聴くということは待つことである。話す側からすればそれは、何を言っても受け容れてもらえる、保留をつけず言葉を受け止めてくれる、そういう、じぶんがそのままで受け容れてもらえるという感触のことである。とすれば、「聴く」とは、どういうかたちで言葉がこぼれ落ちてくるのか予測不可能な「他」の訪れを待つということであろう。」「苦しければ苦しいほど語りはむずかしい。苦しいときにはそもそもそれを他人には語らないものである。苦しいことはなによりも忘れたいことであり、語ることでそれをわざわざ思い出すことはない。苦しいことはまた、本人以外にはなかなか判りづらいものである。…(中略)が、それでもひとは聴かなければならない。言葉が訥々としかこぼれ落ちないにしても、長い沈黙があいだに挟まるとしても、それでもひとは聴かなければならない。」「鬱でいるひとの口は重い。迎え入れられるという確信のないところでは、ひとは他者に言葉をあずけない。苦しみをわざわざ二重にすることはないからだ。そのひとはだから、口を開く前に、まず聴くひとのその姿勢をこそ聴こうとする。」

こう考えると、教師は、子どもたちが授業中の抱えて「わからなさ」を、何を言っても受け容れてもらえる、保留をつけず言葉を受け止めてくれる、そういう、じぶんがそのままで受け容れてもらえるという心持で待たなければならないのだと思います。

教師は、授業を進めたいという思いが強くなると、自分が求めている意見や考えのみに注目し子どもたちの声を聴こうとしがちです。また、自分が求めている意見や考えが出ることを待ちがちです。
しかし、それでは、内に内に吞み込まれてしまった「わかなさな」はけっして外に出ることはないでしょう。

「聴く」こと、そして、「待つ」こと
これまでの自分はどんな「聴く」行為をしていたか、どんな心持で、どんな姿勢で「待」っていたか、改めて考えてみてはどうでしょうか。

引用参考文献
「聴く」ことの力 鷲田清一1999 阪急コミュニケーションズ
「待つ」ということ 鷲田清一 2006 角川選書

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