世の中の活気

「日本の若者には活気が無い。韓国の若者には活気がある」と、2000年に韓国ソウルの語学学校に短期留学したときに、同じクラスの女性の生徒(50代位だったか)がおっしゃっていた言葉は、どういうわけか私にとって20年近く考え続けた言葉。ハテ、日本の若者は元気じゃないんだろうか?確かに韓国の若者は押しが強いが…と、折に触れて考えてきた。「活気」というものを「お祭り騒ぎの興奮」と言い替えるなら、日本人は全然失っていない。ハロウィンのときの渋谷の街や、ワールドカップや、ヨサコイや、ヲタクの熱狂、酔っ払いのサラリーマン(ぎくり)等々を観ていると、決して日本人は大人しくなったのではない。韓国人は、印象だけだが、あの当時も今も同じように声やアクションが大きいし、意見をはっきり言うし、いい意味でも悪い意味でも情に篤い。というか熱い。
最近昭和時代の映画を見ていると、気が付くことがある。日本人の礼儀正しくいつも静かにしている、というイメージからかけ離れたような、喧嘩っ早く(これ実は変わってないけどね)、うるさく、直ぐに暴れ出し、ヤジを飛ばし(まあ今も国会とか選挙演説は同じような感じだけどね)、列を作らず列車のドアに殺到したり、人にぶつかりまくっていた。そういう荒っぽい日本人の性質を飼いならしたつもりでいたのがバブル期までの日本ではなかったかと言う気がするし、初めて自己を振り返らざるを得なかったのが、90年代の構造改革、別名平蔵改革の失われた10年(じつは30年だったが)だったのかもしれない。
さて、日本人が「お祭り状態」のときと「日常」をやっているときとの使い分けがはっきりしているのだと考え、そして80年代末期頃のことを「活気があった」ととらえると、要するに80年代からバブル期終るまでの日本人はお祭り状態だったのではあるまいか。日本のテレビも80年代は滅茶苦茶だし、自分で何言ってるか分かってないで口走っている様子が端々に感じられる。本多美奈子のデビュー曲「殺意のバカンス」ですよ?何言ってるか分かってないよね?
70年代(まだ調査不足だが)までは、日本人はまだ場をわきまえねば、という意識が働いていた気がする。少女歌手たちは、大人びた格好できわどい歌を歌っていたし、普通の歌手たちは不倫の歌を歌いまくっていたが、社会の方はそういうことについて大っぴらに言うことを避けていたように思う(その割に結構ヤってたのは間違いない。養子も頻繁で、戦争や病気で親の死亡も多く、身売り、離縁も妾も珍しくない社会だったし、田舎ではぎりぎり「夜這い」があったことを覚えている人が沢山いた時代であったことは考えておくべき。もちろん同性愛男性もどんどん活動を広げていた時代だよ)。
大っぴらに言うようになったのは、多分バブル期のお祭り状態のときじゃないかなあ。世界的にもファッションはおかしかった時代ではあるけれど…日本はその後、経済的停滞を経験して、一気に目が覚めて、流行歌も内省的になったし(アイドルがアーティストにとってかわられた時代)、「お祭りは終わった…」と肩を落としたのかもしれないね。
ところがどっこい、文化コンテンツは80年代までの貯蓄のおかげでものすごい勢いで花開いていた。ヲタクはねえ、来るべきインターネット時代の息吹を感じながら、待ってたんだよ…ゴゴゴゴゴゴ
平成の時代は結構みんな「素」に戻っていたから、お祭りやる場所とそうでない場所は分けている気がする。ところが不思議なんだけど、昭和期にもう一つあった気がする「場」の使い分け…それは私は「義理堅さ」と呼びたいんだけど、その感覚だけは失くしちゃったみたいなのよね。宮部みゆきが『理由』で、「東京の低地になんかなぁ、超高層マンション建てるなんて、正気の沙汰じゃねえ…お金持ちさんは高台、平地は下町の庶民の世界だろがぁ?」とバブル期以降にはっきりした「日本人が場をわきまえることを忘れた」感覚を表明したのは、そういう意味じゃないかねえ。彼女、あれ以降時代劇ものが増えたのは、正直変わり過ぎた日本社会に疲れたんじゃないかと勝手に思っているの。『火車』も、やっぱり自分の部をわきまえずに消費に走った女の哀しい姿が印象的だったもんね。倫理的に彼女を批判しつつ、気の毒に思っている感じもした(それって昭和中期の映画に通じるよね)。かと言って江戸時代がよかった、とも単純に言えないというのも分かっていたと思う。そうなるとゲームのファンタジーに逃げたくなりますわな。

さて、令和だけど、私が思うに、どうやったらもう一度日本が元気になるかと考えると…もう伝統的・文化的源流に帰るしかないと思うのね。実際、冷戦が終わった後の世界はそれぞれの文明圏のコアから吹き付けてくる風が意外と強いことに改めて驚いていると思う。その中で日本の「オカルト」は一つの「元気」追及ではないかな。オーラの泉に始まり、ご朱印帳集めが流行ったり、歴女現象…私は、「君の名は。」と「シン・ゴジラ」が大ヒットしたのの裏に、「日本スゴイ」を超えた文明的な根源回帰志向を感じるわ。「君」はオカルトを象徴しているし、「ゴジラ」は、サヨク・ウヨクどちらとも言えない新しい価値観を表明したんだと思う。私はどちらにも乗れなかったので、恐らくは置いて行かれる方だろう。そして結構多くの人が置いて行かれるだろう。でも、経済格差という形で置いて行かれることは、もはやみんな甘受しつつあるのでは。経済格差の縮小と、経済成長を同時に成し遂げたモデルと言われた日本経済は、ある意味戦後昭和経済に過ぎなかったと思う。今や新興国経済論の中で、インドのような、壮絶な格差を前提とした富裕層という市場を100%以上肯定するようになったし、その層出身の人々は、もはやグローバリストで、世界の中で更に上に行こうと考えている。おそらくインドなど眼中にないのだろう。それはあの国の未来なので、まだ私には何とも分からないけどね。
日本は、平等化・平準化を経験した後に、再び分裂と格差拡大を経験するので、もはや戦後日本人のような「戦争はいけない」「あの頃はみんな大変だった」に期待することはできないし(というかそれはもう昭和天皇崩御で終った)、じゃあもう、お互いあんまりストレスにならないように生きる方法を探るしかないじゃない。嫉妬と格差で埋もれるわよ。「ぼぎわんが来る」わよ(もう来てるかなイヒヒ)。そのソフトランディングの一つの方法として、オカルト用語を経由することで、自分の感情を顧みたり、人の荒れた心に思いを寄せたりすることが求められるんじゃないかなと思うんだわ。同時に呪いをかけやすくし、低俗霊や式神が跋扈する社会になるんだけどさ(夢枕先生の再来を…)。

またまとまらないけどもう仕事に戻るわね。

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