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「からだでわかる」こと(伏見憲明著『欲望問題』書評③)三島由紀夫について

(写真は、三島由紀夫とかかわりの深い日本を代表する女優の一人、杉村春子さん)

前回の2回はホラー映画に絡む部分で『欲望問題』を考えてみた。最後の一回は、全然関係ないつもりで書いてみたが結局のところホラーに着地した。困ったねw

『欲望問題』は、冒頭で、三島由紀夫の小説『仮面の告白』と『禁色』のセリフを引用している。今回縁あって同書を読み返したときに気が付いた(どこをピックアップしているかは是非本書を読んでいただきたい)。

筆者は、『仮面の告白』に対しては「同性愛者が自分の欲望と向き合うことの困難さ」を読み込み、『禁色』には「他者に向けられる同性愛者自身のホモフォビア」を読み込んでいる。私は『仮面の告白』しか読了できていない。『禁色』は途中で力尽きた。

実は昨年の晩秋、仕事なし・未来なし、で腐っていた私に、三島由紀夫に向き合ってみなさいよ!とある方からアドバイスいただいたこともあり、しばらく短編やエッセイを読んでみた。すると驚く、普通に男性同性愛者のことを書いている。女っぽい感じのゲイのカップルもいるし、そうでないカップルもいるよ、みたいなことを書いていて、はっきり言って驚いた。どうして皆ここに言及しないんだろう

三島由紀夫の短編集の中で、日本を代表する大女優の一人、杉村春子さんにあてがきした戯曲も読んだ。

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今のゲイの感覚から言ってもドンピシャで笑ってしまった。全てのセリフが杉村春子さんの声で再生されて笑ってしまった。これがクィアのセンスじゃなくて何だろう?

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ちなみに、『喜びの琴』事件のことを知り、読んでみた。左翼テロを描いた寓話で、もしかしたらアニメ『PSYCHO-PASS』と繋がる系譜なんではないかしら。同戯曲は、杉村春子さん自身の反対によって劇団での公演が取りやめになり、ゴタゴタして団員が脱退したらしい。その顛末がマルクス主義全盛の日本の知的ムードと、そこから距離があった三島由紀夫の立ち位置を思わせるので、パヨクリハビリ派としては抑えておくのもいいだろう。

私にとって三島由紀夫は心惹かれる作家ではない。文章がきれい、多筆、ジャンルも多彩、皆が暗黙の了解で触らないことにした部分、そして最後の強烈な死に方…。進んでゲイ映画を観ないという私の趣味と関連しているような気もする。私の中のゲイネスとも絡む同族嫌悪?があるのか。

最近よく思うのだが、私は何故大学院などというところに通っていたのだろうか?また研究者と呼ばれるものを目指していたのだろうか?ごくつぶし人生だった。お勉強は嫌いだったから全然勉強しなかった。まして私は、『欲望問題』筆者のように、多作だった三島由紀夫の吐露に気が付くセンスも無ければ、それを言語化する能力も多分無い。私は『欲望問題』を十数年前に一度結構しっかり読んでいる。なのに三島に関する記述が全く引っ掛からなかった。「これはこうですよ」とまで書いてあっても理解していなかったのだから…私は本を読んでも頭に入りにくいと思う。

本書のような意味で、「発言者にとってのその言葉の意味」を想像することは、27歳くらいの私には不可能だった。今は、前よりは気が付くようになっただろうか。わかるかどうか。

筆者は最後の方でこう書いている。

同性愛も部落も女性も在日も、一つの軸、一つの観点でしかなく、人はいろいろな利害関係が交錯する場である、とからだでわかったのです。単純に一つの立場から、この世界を自分とそれ以外の人々の力関係に置き換えて見ようとするのは、どうしたって無理があるし、やはり傲慢だったと反省しました。

「からだでわかる」かどうか。自分の中から、意思や倫理観とは関係なく湧いてくる感覚に導かれないと、私は何かを理解することなんかできない。自分の中の何かが納得してくれないと頭に残らない。それがその時自分に残ったということは、それがそのときの自分にとって「からだでわかる」言葉だったのだ。

だから、分からないタイミングで言葉に触れても意味は無いのだと思う。日本語の先生の勉強をしながら思うが、言語とは不完全のポンコツである。それに振り回され、縛られて生きる我々人類。

三島由紀夫のあの吐露を読んで、当時皆はどう反応したんだろう。触れないことにしたのだろうか。或いは、私のように単に気が付かなかったのだろうか。思い切って自分の思いを書いたのに、彼本人としてはキツネにつままれたようで、却って息苦しい位置に着地したのだろうか。

尚、『欲望問題』のことを考えると、何故か下のブログの主のことを思い出す。

このジャックさんという方は最近亡くなったが、日本語で読めるゲイ向けテキストの中で、反LGBT運動、反左翼、反「欧米」の一つの極を作り出した。

私は、昔『欲望問題』を読んでううううとなり、同じ頃研究でもうううううとなって後ろ足で砂引っかけるように大学院から脱走した後、このブログを読んで、追い打ちのように感じたものだ。私の思想傾向とまるっきり違っていたから。「思想転向」するには、こういう内容を心から称賛できなければならないのではないか…オーウェルの『1984』だったら称賛した後に処刑されるんだけどね…そういう踏絵的なものとして体験したのかも。「からだでわかりそう」な自分を意思や思想の力で否定しようとしていた。だから苦しかったり不安に感じたりしたんだね。でも、超進化するためのドアが…開いていたね。←やっぱりこういうホラー好きなの…

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ジャック氏が変異世界のドアを開く司祭となったあの医師の役回りだったか…ゴゴゴゴゴゴ…

彼は、昭和時代に海外の最先端のものに触れることができ、それを美しい文章でつづることができるほどの知性と強い美意識があった。本当はその都度どう思っていたのか分からないし、美意識が強く少し世間と繋がれなかった人ほど強がりで飾り立てたがるものだ…が、最終的には米国発のゲイリブ運動への違和感が排出された。「からだでわかった」ものと「からだが拒否した」ものがあったのだろう。その彼の言葉が着地したのは、2000年代日本の「日本スゴイ」論陣の中だった。

今読むと、彼にとっての同性愛者(敢えて言えばホモ)ライフは「手段は問わず、その都度その都度で最高の性愛体験をすることが一番の幸福だ」というものに見える(日本の大半のゲイが日々実践していることじゃんね。彼がゲイリブ嫌いのゲイにとってのアイドルになれた所以かもしれない)。途上国に行って若く美しい男性達と体で交流してきた中で分かったことを書いておられるのだ。だからブレが無い。そこが偉い。

あの方の半分くらいしか生きていない上、世代も異なる私からすると「え…何観てきたの…」と思うが、それも事後的に社会がどう反応するか次第だ。結局「正しい」ということになって行くのかもしれないし、私含め、大半のゲイは彼の言うことを否定できないはず。

おそらく、グローバル化の手先と化した韓国と、全く違う日本は色々な意味で違うものを見せてくれるだろう。

『欲望問題』は、正義は社会が事後的に決めるものだ、と言っている。そう考えるなら、「日本スゴイ」論は、グローバル化(欧米化)を見事にかわした日本にとって後々「正しかった」と言われるかもしれないし、既にそう思っている人がたくさんいる。また、『欲望問題』の問題の立て方は、そちら側の人たちに親和性があるかもしれない。ただ、この本は「ここまで考えるの大変だったよ!」という私小説的な本でもあり、その部分をキャッチしてくれるかどうかは…。

三島由紀夫もそこに属す「日本は日本の道を行けばよい」という美意識…日本浪漫派?の系譜は、劣化版として2000年代に花開き、我々の一部になった。そこら中、みんなでゆっくり沈んでいく日本が見える。「日本スゴイ」論は、我々にとって鎮痛剤のような役割だと思う。痛みというものがない。ジャック氏の言葉も今読むと何だか優しい。それに、ある投稿には、「それをそこで書くのかよ」と思わずにはいられないものもあったし。そして最近彼のTwitterアカウントの写真を見て笑ってしまった。インドの大スター、シャールクカーンだったのだ。あのジャックさんがシャールクカーンの写真??ご冗談でしょう。

このおかしさはボリウッド映画ファンならば分かってもらえそうだ。

反対に『欲望問題』は劇薬だ。現実的にものを考えて荒野を進んでいく人のための本であり、日本という土壌にしっかり足を踏みしめた日本論として読まれるべきではないかと思う。そして、昔の私にとっては、反ゲイリブ思想と同じ程度に、多分コズミックホラーだった。それらをその都度、そのように体験できてよかったと思う。ホラー映画は人を選ぶし精神を攻め立てるが、そのあとは現実を生きやすくしてくれる。我々は「からだでわかってしまいそうで、分かった方が楽だ」と直感しているから怖いのだろう。

三島由紀夫世界への扉はまだ開いていない。多分、怖い。


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