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ロビン・ウッドのホラー映画論から見た『ポルターガイスト』三部作

映画批評家のロビン・ウッドは、イギリス生まれでカナダで活躍した。同性愛者であることを公表し、特にホラー映画について、フェミニズムやフロイト心理学を援用して論じた。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Robin_Wood_(critic)

1931年に生まれ、2009年に亡くなっている。

ロビン・ウッドは、「RETURNING THE LOOK Eyes of a Stranger」(『Robin Wood on the Horror Film: Collected Essays and Reviews』に収録。執筆は1983年)で、80年代初頭のアメリカのホラー映画で流行していた若者や女性が惨殺されるタイプのスラッシャー映画の特徴は、処罰(Punishment)だと考えた。曰く、10代の若者は乱交(原文ではpromiscuityという語を用いているが、未婚の未成年による性行為のこととも思われる)によって処罰され、女性は女性であるという理由で処罰されるとの由。そして男性の観客が、ヒロインを救うヒーローだけでなく、殺害=処罰するモンスターの側にまで同一化していると分析している。また、伝統的なホラー映画では、モノガミー的な核家族を脅かすようなタイプの女性が殺されて来たが、この時期は母妻恋人タイプの女性まで殺害の対象になっていると述べている。※一方で生き残るのは大抵女性だとも指摘。

この処罰の感覚だが、日本の文化の中での処罰は、集団のルールを乱した者や余所者に対する処罰だと思われる。一方西欧で共有されている処罰の感覚は、神の基準に照らしての処罰ではないかと思う。妙に保守派の倫理と近いのだ。この処罰感覚は、案外日本と他の国のホラーを考えるために大事かと思った。

さて、そんな処罰感覚でいっぱいのスラッシャー映画全盛の時代に作られ、「誰も死なない名作ホラー」として名高い1982年の映画『ポルターガイスト』、そしてその続編をこの処罰の視点で分析してみるとどうなるだろう。

1 ノーマル過ぎて誰も殺害処罰されない第一作

第一作は、「誰も殺害処罰されず死なない」という点が特徴だ。また、伝統的ホラーの系譜に照らしても、核家族の「ノーマルさ」を侵害する者はあくまでも外の存在で人類ですらないが故に、罰するべき人物を欠いている。強いて言うなら、お墓の上に家を建てたティーグ社長(『バタリアン』といい本作といい、名脇役のジェームズカレン)だけ。一家を襲った怪異は、死者たちの復讐とも解釈できるが、元々は、墓の上に町ができた結果?迷える死者になった霊たちの存在を利用して悪さをするため、より強大な力を持つ異世界の存在が、それらの霊に影響を及ぼす力を持つ末娘を狙ってやってくるのである。死者たちと一家には直接の関係が示されないため、これは自然災害(後述のロビン・ウッドの挙げた項目の中では「自然の復讐」)や事故に近い。

一連の事件が終わり、最後に一家はモーテルの部屋に入ってゆき、父親がうんざりした顔でテレビを部屋の外に出すシーンで終わるが、これまでの生活を否定するものではない。キリスト教の重要な概念である、愛=LOVEがそこにあれば、家族は安泰で幸せを取り戻すだろう。劇中で、夫婦がしっかりと抱き合って接吻をする様子を、霊媒師のタンジーナが微笑ましく見ており、ドラマチックな音楽が流れている。ノーマルな核家族のLOVEがあるのに、構成員が殺されてはならないのだ。

さて、「女性への処罰」という意味では、後半、妻のダイアンは霊の攻撃を受けている点が、ウッドの論に当てはまるかもしれない。一方、夫スティーブは、ダイアンに比べ家にいない時間が長い分、個人的な攻撃を受けていない。これは確かに、よき妻で母親、しかもまだ若々しいダイアンが攻撃されるという意味で、80年代ホラーの「処罰」が女性全般に向かっているとする指摘と合っている。が、この描写によって彼女の行動力と勇気が強調されることになる。

ロビン・ウッドは、同じ論文集の「Return of the repressed」の中で60年代から80年代初までのアメリカホラーの5大要素として、以下を挙げている。
①精神分裂的な人格
②人肉食(人間が食われるシーン)
③悪魔崇拝
④怪物的な子供
⑤自然からの復讐

『ポルターガイスト』は①~④までは当てはまらない。科学と無神論的超自然観によって説明される怪異は、⑤に近い。したがって、無事生還すれば、台風一過、また家族は元通りになるはずである。

2 ノーマル核家族に吹く隙間風

ところで、ノーマルさを体現したような80年代の核家族とはいえ、両親はベッドルームで大麻を吸ってふざけ合っている。教会に行くシーンもない。怪奇現象が起きても、他の悪魔憑きホラーと異なり、キリスト教的なシンボルにすがっている節が見られず、まず大学の研究者(女性)の力を頼り、彼女を経由して霊媒師タンジーナに出会っている(科学の力ではどうにもならないことを確認してから超自然の力を頼る筋は『エクソシスト』とも類似)。一方、父親は子供には厳しく接することはなく、規律正しい感じもない。他方でレーガン大統領の本を読んでいる。その都度現状に適応していくタイプであろう。

家族全員の年齢が劇中明らかになるが、母ダイアンは32歳で既に3人の子持ちだ。逆算すると長女ダナを産んだのは16歳くらいになる。この点がどう解釈されうるのか、分からないのだが、ずっと気にかかっている。今では住宅販売のやり手セールスマンに収まっている夫スティーブは実はどういう人物なのか。

一家は、怪奇現象が起こるようになり、家族が過度のストレス下に置かれ、娘キャロルアンが行方不明になると、それなりに不安定化する。ウッドは、「人間が食われること」に関し、「家族」という場は、互いを相食むような場所だともいっている。その論に立てば、家族構成員が互いを攻撃し合うシーンがほとんどない。『へレディタリー 継承』などで目にすることになる「本当に見せてはいけない家族の素顔」は出てこないのである。しかし、よく見ると脆そうなこの一家の「本当に見せてはいけない家族の素顔」は、続編以降で出てくることになった。

3 男性性に着目する第二作

第二作『ポルターガイスト2』の英語副題は「The other side」。これは、「あの世」という意味で、ついにあの世の姿が映像に出てくることになるということでもあるが、フリーリング一家のもう一つの姿が出てくるという意味でも妙に符合している。

第一作で大して活躍もできなかった無力な父親は、仕事も家も失くし、妻の実家にご厄介になっている。元々腹が出ており、髪が伸びてヒッピーのような姿になっており、酒におぼれ、若い女と浮気もしたらしい。それらすべてを許したダイアンのありようは、「ノーマル」な妻・母・恋人そのもので、伝統的ホラーでは処罰される対象になり得ない。なるとすれば、夫のせいである。『2』の興味深い点は、父親スティーブの体たらくに主眼が置かれている点である。

ロビン・ウッドは、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』の三部作は、それぞれ、核家族の崩壊、消費主義への批評、男性性・軍隊に対する批判だとして高く評価している。時代的には、『死霊のえじき』は1985年公開で、『2』の1986年とほぼ同時である。昨今では、Toxic Masculinityを内面化した男性が殺害処罰の対象となって来ているため、第二作はその点において、今見直すと面白いかもしれない。

一方、第一作に出てこなかった要素、キリスト教新興宗教団体が「悪」として描かれる点も興味深い(これは、意味づけは全く異なるが、Amazon primeシリーズドラマの『ゼム』と似ている)。悪の力は、上記のとおり自信喪失状態の父親が一家の弱点だと見抜き(やっぱり悪のパワーは真実を明らかにする傾向がある)、男性性を取り戻すようけしかける。その過程で、この力は「本当に見せてはいけない家族の素顔」である、夫から妻への暴行を子供に目撃させている。第一作をぶち壊しにする恐怖シーンだ。これまでいろいろなことに耐えて来たダイアンにとって最もショックだったのではないだろうか。ここで、アメリカホラーでよく出てくるレトリック「あれはパパじゃない」「あれがやらせたのだ」という形で、ダイアンもキャロルアンも状況をすぐに飲み込んでしまうかに見える。

4 核家族では手に負えない

その不安定さを解消するのが、物語から脱落する祖母(ダイアンの母)である。『2』のもう一つの特徴は、先住民文化やスピリチュアルに対する傾倒であるが、祖母は本作において、白人スピリチュアル思想の源泉になっており、最後に再びスクリーンに戻って来る。ノーマルな核家族の愛が悪の力を退けるのだ、とする思想は、無神論化されたキリスト教的価値観のように思われ、こんにちでも、同性婚が全米で合法になるまでの運動をけん引したように思う。核家族のLOVEが悪を倒すという思想は第一作から第三作まで貫かれている。しかし、シリーズが進むにつれ、画面に描かれているほどLOVEは強くなくなっていく。『2』の最後では祖母の霊が登場し、この世で家を失くした一家を、あの世に行ってもなお救う。つまり、核家族ではもうダメだったのである。一応、『2』は、前作のムードを引き継いで、最後は家族たちの後姿を遠くから映す形で微笑ましく終わる。しかしそれを全否定してしまうのが第三作目である。

5 悪霊の方がマシだと言われる一家 第三作

第三作『ポルターガイスト3』に続く。主演女優が撮影直後に亡くなったことでセンセーショナルに扱われたものの、作中に出ないフリーリング家の崩壊の方がシリーズとしては大きな展開だったと思う。フリーリング一家から切り離され、本作でキャロルアンは初めて主役として立ったと言ってもいいかもしれない。家族と一緒にいられなくなった理由は、「悪のパワーから逃れ、忘れさせるため」ということと記憶しているが、いきなり家族とキャロルアンが切り離された展開に私も違和感を感じた覚えがある。親戚の家に預けられ、孤独な彼女は周囲に心を開かなくなってしまう。ある意味それは彼女を守ることだったのかもしれないが、催眠術を施術されたことで記憶がよみがえり、悪のパワーが彼女の居場所に感づく。もし第三作目で家族との信頼が描かれていたらこの展開はつまらなかったかもしれない。が、彼女にとっては、パート2で「見せてはいけない家族の素顔」を見てしまったことの方がよりリアルな恐怖だったのではないかという解釈が可能になる。

キャロルアンは、三作目で遂に自分の声を得るが、何と、自分を連れて行った敵側について、「少なくとも自分を必要としてくれる」と言い出す。そこで、敵の悪意が霞み始める。

第一作の悪の力は、彼女を取って食おうとしていたわけではなく、多数の霊をこの世に留めて悪さをすることが目的だったように思われる。暴力的ではあるが、自然災害の要素もあり、悪の根拠が元々弱い。『2』では、ケイン牧師という人格が与えられることで邪悪さと不快さが明確になり、彼女の命を欲する。しかし、『3』での敵は、彼女に救いを求めているようにすら見える。

彼女を預かった親戚一家は、キャロルアンがあちらの世界に吸い込まれた後、本当に彼女を取り戻したいのかどうか、という自問自答に直面する。それに関し、再婚した妻のパットに、あの子はうちの子じゃないというようなことを言わせている。パットを演じたナンシー・アレンは、『キャリー』で残虐なクリスの役をしているだけに、悪い継母の役回りがはまってしまう。となれば、「処罰」の可能性が持ち上がって来る。が、モノガミー的な家族は大肯定しているので処罰は免れる。と見える。

6 罰せられる十代

尚、前の二作とは異なり、三作目は、80年代アメリカホラーの十八番、10代の若者によるセックスと、それに対する処罰のテーマが出てくる。第一作では、ダナが「あのモーテルなら知っている」というセリフで一瞬ダイアンと観客の注意を引いている。が、具体的には何もない。今回の10代は、親のいないときにパーティをやっている。性行為もしているだろう。そしてむろん処罰されることになる。

『3』の一家は、夫ブルースは再婚で、10代の娘ドナがいる。ドナとパットの年齢はかなり近く見えるものの、二人の信頼関係は表面的に見える。そういう意味で、彼らは核家族の形をしているものの、内実は、舞台となった高層ビルと同じく、寒々しく表面的だ。最終的に家族の愛が誕生したのかどうかが弱い。家族の形のために自己を投げ出す義務感が否めないままだし、霊媒師のタンジーナの力でキャロルアンが奪還される。ラストから二番目のシーンで家族の抱擁を正面から捉えている。背中を見せるほどの確信がない。おまけに、敵は霊界に導かれたはずなのに、まだ去っていないような印象を残している。それも家族の不安定な状況を考えると妙に平仄が合っている。

第一作は処罰対象のいない作品だった。それ故に、アメリカ人の大半が知っているようなポピュラーな作品になったのだろう。同時にスピルバーグが監督した『ET』の核家族は既に崩壊している。元々ホラーとして計画された『ET』をあの形にしたのは面白い。

外からの侵入によって都会の家族が攻撃され、不穏な未来を予感させつつ終わるという意味で、同時期の作品『危険な情事』と『3』は似ているが、「女を処罰する」という点でロビン・ウッドの分析がピッタリ当てはまる『危険な情事』に対し、『3』は、『2』同様、高齢の女性(しかも霊界で)の献身によって救われ、処罰を免れている。

一方、『2』の夫は、モンスターの出産を強要される。その意味では、珍しく男性を罰している(『エイリアン』のように。出産とは命懸け。死ぬかもしれない)。あのシーンは、彼が妻の呼びかけに応えて理性を取り戻したことで体からモンスターが出て行ったと解釈していたが、そうではなく、元々時間が経てば出ていくはずだったのだとしたら、あのモンスターが体内にいたときのスティーブの妻に対する暴言や暴行未遂は、むしろ彼の中の欲望なのだという気もしてくる。

ロビン・ウッドの論に沿って80年代ホラーシリーズの一つ『ポルターガイスト』三部作を考えてみた。映画としての満足度や評価は三作品の間でかなり割れている。しかし、80年代家族の「見せてはいけない家族の素顔」を隠し切れなくなって最後あのような形でシリーズが終わったと考えると、やっぱり呪われたシリーズだと言われるのも故無きことではないかと思えてくる。

付記4/7

第一作のダイアンの扱いを『処罰』だと捉えてみると、説明が弱い気がしてきた。ロビンウッドは同じエッセイの中で、『フランケンシュタインの花嫁』に関してこう書く。

しかし、キーポイントは伝統的なホラー映画では、脅かされるヒロインはいつもモノガミーの婚姻の価値と、核家族に関連しているということである。(中略)モンスターが真に脅かすのは、抑圧的でイデオロギー的に構築されたブルジョワの『ノーマリティ』である。(265ページ)

この記述からすると、ダイアンはまさにこれに該当する。つまり、第一作は特に、古典ホラー的な要素が強く、シリーズを通じてそのテーマは出てきたり引っ込んだりしているが常に流れていると思われる。したがって八十年代的な、すべての属性の女が処罰されているという論にはいまいち当てはまらないのは当然と言えば当然。パート3はその意味で元のテーマが何だったのか忘れさせるような作品であるし、古典的ホラーの前提…ロビンウッド言うところのブルジョワのノーマリティが強く問われる寸前のところに来ていたことの示唆かもしれない。

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