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共同性は要らなくなったら消えるもの(伏見憲明著『欲望問題』書評②)

『欲望問題』感想文2回目。今日は、「共同性」についての下り。

『欲望問題』は、後半でミュータント(マイノリティ)VS人間(マジョリティ)の激しい対立を描いたアクション映画シリーズ『X-men』の中で、ミュータントを消す薬「キュア」が発明された『ファイナルディシジョン』について触れている。

※映画については上記参照。

筆者は、同性愛者を異性愛者に変える「キュア」が作られたとしたら、どうだろうかと想像している。

キュアにしても、その用いられ方が問題なのであって、選択肢はあるにこしたことがない。複雑な政治状況の中で、ぼくらはそうした根本を忘れがちになりますが、結局は「私」という感受性を頼りに選択していくしかないし、「私」と「私」をつないでいくことによってしか「私たち」のより良い方向性は拓かれていきません。
キュアによって自分を変えようとは思わないでしょう。ただ、それを強要しようとする力が働いたら、それと闘う決意はあります。
 もちろん、自分がそうだからといって、キュアの開発や、それを用いることを望む同性愛者のことを否定しません。その選択が強制でなくなされたものなら、心から祝福してあげるでしょう。そして、そういう人たちが多数になってゲイ・アイデンティティやゲイ・コミュニティが喪失することもかまいません。そのときにはそのときの幸福があるだけです。アイデンティティや共同性は人を幸福にするためにあるものだし、またそうでなければ、いずれ必要とされなくなっていくでしょう。そのように、ぼくらは一つひとつの「欲望問題」を取捨選択し、その過程を生きていくしかないのです。

アイデンティティやコミュニティ(共同性)は変容するし、必要が無いなら喪失してもいい」という著者の言葉は、2006年当時、左翼思想を引きずったごくつぶし大学院生だった私の不安を掻き立てた。私には「ゲイ」という共同性以外、マジで何も無かったから。

あれから15年生きてみると…複数の共同性が、一人の人間の中に重層的に重なっており、矛盾を孕みながら妥協や緊張関係の上で共存している…つまり人間に一貫性や統一性があるべしと考えることの方が虚構なのだろう。そして虚構だからこそ信じたくなる。

2021年の今、東京に住む私は「ゲイ=被差別者」という共同性を信じられなくなってしまった。昔は以下の下りなどはなかなかショックでもあった。

(竹美注:『X-men』に言及した自著を引用しつつ)この文脈では、マジョリティはマイノリティに対して偏見を持っていて、一方的に排除している、という展開になっています。多くの差別問題を見れば明らかなように、そういう傾向は様々な場面にあることですが、しかし、もっと深く考えてみれば、マイノリティだからといって、その存在のありようがそのまま認められるべきだということにはなりません。この有限な地球という空間を共有していく上では、お互いがなるべく自由に、自分の欲望を追及していくことが望ましくても、その利害が対立することはままあるからです。

マジョリティ=悪、マイノリティ=正義という考え方が、いつの間にか私の中から消えていた。その目で改めて下記のようなニュースに接すると…

(※ポテトヘッドへの対応を歴史修正主義とは言わないんだろうか)

私はゲイだから、上記のような動きはむしろ好ましいと思う。でも、この世界の様子を『ゼイリブ』というホラー映画のように感じている人の欲望はどう扱われるのだろう?と疑問に思うようにはなった。

冷戦末期の80年代、こういう作品は「地球人」=あたしら=正義(西側)、「侵略者」=あいつら=悪(東側)という構図ですっきり楽しめた。あれから30年経った今…ホラー映画は「新しい悪」を求めている。もしリメイクするとしたら、「洗脳された人」=悪のマジョリティ、「目覚めている人」=正義のマイノリティ、と読みかえるのだろうか。その方が作り手も観る方も楽で、ブラムハウス社は非常にうまく新しいハリウッド映画のトレンドを作り出している。あの種の映画は、特定の価値観と収入を共有する層に語りかけ「そうだそうだー!」と、彼らの価値観を更に強化するだろう。そしてそういう考えに共感できない人を少しずつ、追い込んで行く。今はホラーの中の悪と、現実世界の悪いマジョリティ的思考がイコールになってきているように見える。

そんな中で、ホラー映画に本当に社会批判の力があるとしたら、『ゲイリブ』なんてのを作ったらどうだろう。ゲイリブ運動を学んだAIが「ゲイを被差別者として認知させ差別解消を正しく動かさねばならない」と判断して人々を洗脳し始め、洗脳に反抗し始めたり、その価値観と著しく異なる現実を生きる人々の社会的地位と精神をじわじわと抹殺しにかかるホラー。

下記のような、トレンドの先端を行くホラー映画を観ると、ホモフォビアを克服できない同性愛者はこの世に行き場が無く惨めな最期を迎えるのだと考えてしまう。

地球上には、未だに同性愛者(というか、男や女らしくないという理由)だからと言って殺されたり、家や故郷や仕事場を追い出されたり、暴力を振るわれている状況がある。上記『触手』は、メキシコにおいてホモフォビックな空間と、ゲイに生きやすい空間が隣り合わせになっている状況を描き出している。そこまでは単なる描写だが、ホモフォビアを解消できなかった同性愛者の男には救いが与えられていない。これは「ホモフォビアが治らない者は不幸になるぞ」というメッセージでなくて何だろう。

尚、現実を見ると、東京のゲイは恵まれている。日本だけに限定すれば、「ゲイのアナタより女の私の方が苦労してますが何かw」と内心思っている女性は多いのではないだろうか。

※細かいこと言えば、ゼイリブThey LiveとゲイリブGay Liberationは綴りからして違うんだけど、日本発ってことにしたらいいんじゃない。英語リテラシーも、今世界の人々…そしてゲイを分断している。

そもそも反差別運動というのは、社会の中に自分たちを排除したり低い位置に置く力が働いている、そのことに対する「痛み」がある時点で沸点に達して起こるものです。そのときには「痛み」を解消するための行為は「正義」でしかない。それを差別と同定したときに「正義」は自分たちの側にあることになります。それに対して、「痛み」の訴えだけではそれは「正義」にはならない、「正義」かどうかは、その訴えが当事者ばかりでなく社会の中で議論された結果、事後的に決定される、と言われたわけですから、それまでの自分たちの主張そのものの根拠が問われることになります。これは「痛み」「差別」の脱本質化と言ってもいいでしょう。しかしぼくにしてみたら、まったく異なる世界観を突きつけられたわけです。社会は自分たちを抑圧する敵だと思って始めたのに、ある意味で、その敵に自分たちの正しさを認めてもらわなければならない、というパラドックス。
 これはぼくのような反差別運動の第一世代には、心情的には受け入れることは難しいのです。やはり、自分たちのやってきたことが疑わしい、と突きつけられるわけですから。けれど、もし、他の誰かが自分に、「私」の「痛み」は他の誰にもわからない、あなたたちはただそれを解消しなければならない、と押し付けてきたら、ええっ?と自分もとまどうことでしょう。ぼくも、その言い分に耳を傾けて、それに納得して、問題を解消しなければと思ったときに初めて、その訴えを正当なものだと認識することになると想像します。それに、「痛み」や不満などというものは、多かれ少なかれみんなもっているわけですから、それらの申し立てをすべて「正義」として社会的に解消すべき事柄として対応していくなんて、子供が考えたって無理な話しです。ですから、当然、そこになにがしか、その訴えを採用するかどうかを検討し合う過程が必要なことは、明白です。

自分と意見の合わない言い分に耳を傾けることは難しい。まして「敵」との対話なんて。大半の人は、相手の言い分になんか耳を傾けたくはないわけで、Twitterでは何かしらの処刑祭りを求めて殺気立っている。

私ならば…二人共収入があって親の理解もあって…というゲイカップル達や、「自分がマンションを購入したことを親に言うかどうか」というトピックで悩むことのできる層、欧米人と婚姻によって移住する層…は、私たちカップルの置かれている状況とは決定的に違う。その違いを日々目にすることは段々苦しくなっていた。ましてシングルのゲイならば、何を悩むのだろう?モテるかどうか?

ゲイという共同性?ご冗談を。

そんな感じでスネていたが、最近また認識の大転換が起きた。「自分は規格外の人間なんだから、他人の物差しで自分を測る方が間違いだ」という啓示が来た。すると、私の「不満」「痛み」などは、「まぁ…まだ生きているしまあまあ恵まれているからいいよこれで」と思えるところに着地し、私の中で葛藤が減った。『ゲイリブ』的には後退だろう。でも、そうなってみて初めて、逆に、自分と激しく対立するような主張も聞いてみようか、という気持ちになれる。我々は常に気持ちや気分、単なる好き嫌いに左右されている以上、それを無視すべきではないのだろう。都度の「気持ち」は否定せず、何となく相手の話を聞いてみれば、驚きの妥協点が見つかるかもしれない。

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