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教え、教えられる関係

お寺で寺子屋という学習塾をして10年くらいになります。
私の住む島根県邑南町は過疎少子化の進む地域で、町内に塾がありませんでした。もっと勉強したいという子も、苦手だから助けてほしいという子も、学校以外に勉強をすることができない。
そこで、ささやかながらお寺で勉強を教えようじゃないかと始めたのですが、気がつくとたくさんの子どもたちが来てくれるようになりました。

教えるという行為の不思議

勉強はそこそこできました。でも、そこそこ程度ですので、そんなにめちゃくちゃ得意というほどではありません。仕事柄「わかりやすく話す」ということは得意ですが、難しい問題になると解けないものもあって、子どもたちと一緒に悩むこともあります。

教えるというのは実に不思議な行いです。
問題自体は解けるのに、教えようとするとどう言っていいか分からないということがあります。説明しようとすると、自分の理解が曖昧だったところに気づきます。
誰かを目の前にすると、「分かったふり」をしていた自分が明らかになります。
教えるということを通して、鏡で写されているかのようです。

成長は一緒にすすむ

子どもが成長して、大人は変わらないような感じがします。
でも、それでは大人が押し付けているだけで、子どもは勉強が嫌いになってしまいます。
そうではなくて、子どもも成長し、大人も負けじと成長するというのも大切だなと思うようになりました。

大人も一人で自分のキャリアを進めるだけではなくて、子どもたちと対話をしながら自分の姿をみることで違った景色が見えてきます。
私も38歳になりました。自分の人生も折り返しにさしかかり、自分一人でできることの限界も感じるようになりました。

一方で、子どもたちと関わることで、自分のできなかったことや、見えていなかった景色は、きっと彼らが実現してくれるのだろうと思うと、とても楽しみになります。

自分の子どもも楽しみですが、寺子屋でいろんな子どもたちと出会えたことはとても幸せなことだなと感じております。

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