東京大学教養学部(前期課程)「2020年度Sセメスター定期試験・レポート・小テストのガイドライン」をめぐる一論考

この文章は、2020年6月25日に発表された東京大学教養学部(前期課程)「2020年度Sセメスター定期試験・レポート・小テストのガイドライン」について、前稿に引き続き、その問題点等について検討を行うものです。なお、教養学部前期課程の学生ではないという意味で私が当事者ではないことその他の前提は前稿と同じです。

前稿:東京大学教養学部(前期課程)「2020年度Sセメスター定期試験・レポート・小テストのガイドライン」の問題点

教養学部では、今回の試験に関して、「オンライン試験相談会」を行っているところであり、2020年7月2日に第1回が行われたところです。懸念点に関する説明や補足的な説明がなされたと承知していますが、動画という形式は、アクセス性が著しく低い(偏った言い方をすれば、2時間の動画をすべて見た者だけが情報を得ることができ有利になってしまう)という重大な問題がありますので、この点、文書によりすべての学生に対し公平に説明が行われることが期待されるところであると考えます(学部側においても準備されているところと思いますが)。

公平性の問題

一般に、試験は「公平」に行われることが期待されるし、求められているのだが、教養学部前期課程においては、履修した(ほぼ)全科目の成績をもって進学先を決定するという進学選択の制度があるので、特に公平性について問題となるところである。

「相談会」においても、公平性の観点からの説明や指摘が多数あったところと承知しており、学部側からは「公平な不正、不公平な不正」といった論点も提示されたところである(文脈を削ぎ落としたこの引用の仕方はおそらくアンフェアだが、そもそもこの言い方そのものがフェアな引用の難しいものであろう)。おそらく「公平」というのには複数の問題系が内包されている。これに対して詳らかに分析することはせず、若干の点について触れることにしたい。

ひとつには、皆が同じ取り扱いを受けること、ということがあろう。これはさすがに多くの場合前提として理解され満たされているが、そうでない場合もある。意図的にこれを外す場合として、大学入試において「受験上の配慮」と呼ばれている類のものがあり、端的な例を示すと、試験時間が1.3倍される場合がある(これも一応、同一の手続きと基準によって審査されること、という意味での同一性は担保されているが)。授業の成績評価の場合、試験におけるトラブル等のために一部の者のみに対してレポートや追試験等による評価を行うことは、これにあたるだろう。成績が公平になるよう配慮するとはいうものの、それを客観的に保証することは難しい。原則としては皆が同じ取り扱いを受けることによって保証されているので、これから外れることとなる場合、比較的問題となりやすい部分ではないかと考える。

もうひとつには、人によって著しい有利不利が生じないような条件であること、ということではなかろうか。また、この点に関連して、有利不利でも、既存の構造的な有利不利を強化するような性質のものは特に忌避されるように思われる。今回のオンライン試験ではこの点については難の多い部分であり、ルールの範囲内であっても、個人の環境(机の広さ、画面の広さ、等々)によって条件が異なってしまう。したがって、極力これを低減するようルールを設計することが求められるといえる。たとえば、プリンタの有無という違いに対し、印刷資料の持ち込みを制限することなどがこれにあたる。しかし一方で、加えることのできる制限は「モニタリング」可能な制限でなければならないので、この調整は非常に難しい問題であるように見える(ところで、ということは、逆におそらく、「モニタリング」の必要性は、直接的には不正の防止と言っているが、不正とはルールに反することであって、この公平性の問題からルールを決めなければならないという問題とのバランスから導出されているということができるだろう)。

私見では、進学選択という競争制度(と学生には認識される制度になっているだろう)においては、特に前者の取り扱いの公平性については問題とされるだろう。ここが毀損されては競争(というゲーム)が成り立たないと認識されるからだ。いっぽう、後者の条件の公平性については、競争の観点の問題ではなく、不利な立場にある者にとって理不尽な事態として認識されるのではないか。ただ、なんにせよ、この公平性に関する問題については最終的には調整の問題に帰するものではないかという感触もあるところである。

「公平な不正」について補足:真面目な人が馬鹿を見る制度を作ってはいけない

これは「公平な不正」という発言に対する論点である。あくまで「モニタリング」制度の目的を説明する際の言葉の綾だとは思うのだが、指摘しないわけにもいくまい。人の助けを借りるのは交友関係などによって人によって差が付くから不公平な不正で、逆にいわゆるカンニングペーパーのようなものは皆が同じように不正できるから公平な不正だというのである。確かに一言に不正といってもさまざまで、それぞれに対する態度が異なってくることはあろう。しかし、「公平な不正」ならいいわけではないということは、当然のことではあるが確認しておきたい。不正はされないことが期待されているのだから、それに反して発見の難しい(すなわち、発見されないことになるであろう)不正がなされることを予期して制度を実施するというのは、期待を踏まえ不正をしなかった者が不利益を被る結果になることであって、これは一般に公平ではないとみなされるだろう。想定され、かつ防ぐのが難しい行為は、あらかじめ認められるべきである。

組織としての制度的保障が不十分であること

いくら素晴らしい制度が作られても、それがその通りに運用されなければ絵に描いた餅にすぎない。「相談会」においても指摘されたことだが、果たして教養学部の全教員にこの試験方式が(その意図を含めて)十分に共有されているかは、疑問の大きいところであろう。実際、常勤教員はまだともかく、教養学部前期課程では多数の非常勤講師が授業を行っており、特に懸念の大きい点と考えられる。

これに対する解決策は「周知を徹底します」ではない。周知が不十分であるから問題とみなされているのだし、周知という方法で十分に共有できないという構造的な問題であると考えるべきである。そして対応として、制度的保障がなされるべきであると考える。

制度的保障のひとつは文書化である。具体的には、やり方といった表面的な点のみならず、制度設計上の意図や各授業において期待される運用を文書化することである(当然それだけ文書は長くなるので、マニュアルと分離する等の整理は必要となろう)。もちろん、部会や担当教員の裁量にゆだねられる部分もあるので、事細かにすべての事項を記すことは難しいが、そうでなくとも、(ちょうど「相談会」において説明されたような)一定の内容を提示することは可能であろう。このような文書の存在によって客観的判断が可能となる。すなわち、学生は、その文書を論拠として、教員に対し個別的対応を求めることができるし、それで解決しなければ、学部側に対して組織的な対応を求めることも可能となる。逆に、このような点について明確化されていなければ、教員に対して対応を求めるといっても、あくまで学生の立場から、一種の嘆願のような形で求めることしかできなくなってしまうのであって、制度の意図の実現が実効的にはかられることは難しくなると考えられる。

制度的保障のもうひとつは組織的な窓口を設けることである。もちろん、既に教務課の問い合わせフォームやタスクフォースによる「情報サイト」の問い合わせフォームがあるので、これが窓口となるし、それは既に示されている。そうではなくここで言いたいのは、それが試験に関する対応を行う窓口であり、学部がどのような対応を約束するのかということを明確に位置付けることである。これは上に述べた文書化(基準の客観化)とセットになるもので、これらは、学部を拘束する学生に対する約束として機能することになる。

特に、個別の事情に関する申し出(たとえば、ガイドライン5ページに書かれている、「機器やネット環境、部屋の環境その他諸事情」によりA方式で行われる試験をB方式で受験する場合が典型であろう。他には、口が動く癖がある、といった点など「相談会」において複数指摘・提示されたと承知している)については、例外的(「お情け」による)対応ではなく、制度としてあらかじめ想定されているものであると考えるが(まずこの点が明確に述べられるべきであろうがそれはいいとして)、そうであればこそ、制度上必要な作業として然るべき制度的手順が整備されるべきである。「お情け」を求めるのではなく、個別的な状況による判断はあれど、基本的には事務的な連絡である、と考えられるべきであり、これが明確にされるべきである。はじめに担当教員に個別に連絡することを原則とすることそのものに問題があるわけではない。あくまで学部としての方針であるのだから、これについて判断するのは学部として行うのであって、担当教員に属する権限ではない、ということが明確にされ、その学部としての判断を求める窓口である、ということが示されることが必要であると考える。

まとめると、組織として定めた制度を、組織として責任もって運用せよ、それを担保するための制度的整備をせよ、ということになる。(近年の国の国立大学に関する政策の影響もあり、非常に残念なことに)教養学部における事務体制が非常に厳しい状況に置かれているという問題は周知の通りであり、これによる制約を受けざるを得ないのもまた事実ではあるのだが。

ついでに書けば、「東大の教員を信じてください」と言われても信じられない、というのも当たり前のことで、信じられるには信じるに値するだけの措置を講じる必要があるのである。それが制度的保障であると考える。

補論:個別対応に関する問題点

前稿でも指摘したので繰り返しになるが、そもそも、個別の事情にともなう対応を個人の申し出に基づいて行うことそのものにも問題がある。もちろんやむを得ない場合として許容されるべきこともあるかもしれないが、(私にとって)重要な問題であることは変わりないので、また、これまで広くこれに関連する問題について教養学部において軽視されてきたのではないかと私自身が考えているため、繰り返し述べる次第である。

まず私が問題視しているのは、個別に申し出を行うことそのものがその個人にとって負担であることである。単純に連絡が必要であることそのものが負担であることもそうであるし、単純に(成績評価を行う権限を持つ)教員に連絡することの心理的負担もあるし、やり取りの中で心ない言葉をかけられることも(極めて残念なことであるが)ないとはいえないのが現状であり、そうであればそういった連絡をすることの心理的負担は大きいものであろう。補足すると、このような個別の申し出が必要となる時点で、それが少数の者にのみ必要なものであるのが通常であろう(多数の者に必要なら、そのような制度とはならない)。そして、そのようなマイノリティ特性を持つ者にとって、そのような申告が負担であることは言をまたないものであると考える。

言い換えれば、そもそも個人の事情や特性に関して本人に申告させることそのものの問題ということである。それこそ性的少数者に関するそれは社会においてもよく認識されているところであろうし、「口を動かす癖がある」といったようなものは特にそうであると考えるが、家庭環境がセンシティブな問題でありうることも一般的な認識であると思う。もちろん、これらに限らず、何をセンシティブな問題と考えるかは人によって異なるのであるから、一般論として個人の置かれた状況について申告させることはできる限り避けるべきであるという結論に至る。

せめて負担を軽減するため、対症療法的なものでしかないが、せめて窓口を一元化することはできないか。現在の指示は、授業ごとにそれぞれの担当教員に連絡するということになっているが、単純にすべての授業について個別に申し出ることの負担もあるし、担当教員がどのような考えを持っているかは学生には明らかではないという負担もある。一度学部なりの専用窓口に連絡すれば、あとは事務的に処理される、というようにできないか、と考えるところである。

もう一点、このように特定の条件にある者に対してのみ負担を課すことがもつ社会的な意味についても考慮されるべきではないか。それはつまり、このような制度が、「東京大学に来たら、あなたの事情について試験のために申告しなければならない」というメッセージを発することになっているということである。あるいは、「東京大学においては、やむを得ない状況であるとはいえ、このような事情を持つ者に個別に申告を求めることは許容されると考えている」というメッセージを発することになっているということである。これがいかなる意味を持つかは直ちに理解されるところであると考えるが、さらに、このような事態は、東京大学が重視している多様性の実現の観点からもその妨げになるであろう、ということも付言しておく。

「モニタリング」に内在する問題について

「モニタリング」そのものに起因する本質的に避け得ない問題(プライバシーに関する論点や、前稿で指摘した私的な空間で行動を制限することの侵食性)があること自体は認識されていると思う。このような問題については、結局は、(ガイドライン中「プライバシーに関する考え方」でも書かれているように)比較衡量によって許容されるかどうか判断されることになろう。

しかし、これも前稿で述べた点となるが、学生と学部側との間に権力の非対称性があるのであるから(学生は声を上げにくいということも含めて)、この問題系について学部側においては慎重な判断が求められること、学生に対する丁寧な説明が求められることはあらためて確認しておきたい。

さらに、学生においては、公平性等の他の学生と比較して不利益となる事項に優先して関心を向けざるを得ないし、そのようにして当然であるから、このような(ほぼ)全員に等しく生ずる不利益に関する問題系については、相対的に議論がなされないことになりがちである(し、実際そうであるように見える)。だからといってこの問題について疎かにされることが好ましいとも思われない。したがって、教養学部においては、この問題系の背後にかかる構造的な状況があることを認識し、自主的にこの問題系に関して見解を明らかにすることが望ましいと考えるところである。なお、これは教養学部の意思決定に影響するべき事項ではないかもしれないが、私としては、東京大学のとる方針が一般に国内の他大学において広く参考にされる傾向が(是非はともかくとして少なくとも実態として)あることも踏まえて、このように考えているところである。

補足:行動を制限することについて

前稿では特に、この問題系について、学部側が学生の行動を制限するものとして機能している旨を指摘した。「相談会」においてこの点につき、技術的な論点や、あくまで不正行為の判断は総合的に行う旨、事情のある場合には(事前に)申し出れば判断にあたって考慮される旨など、懸念を緩和すべく説明が行われたものと承知している。実際、ガイドラインにおいても、2ページ「具体的には、教員から特別に指示がない限りは、以下の4点が不正行為となります」として、不正行為の基本的な判断枠組みが示されているのは確かである。しかしながら、前稿でこれも指摘したように、いくら不正行為について総合的に判断すると表明されていても、ガイドラインに「パソコンや参照資料から視線を外した場合」や「手が映像から外れた場合」は「不正行為とする場合がある」という書かれ方をしているのであれば、それはすなわち「そのようなことはするな」という命令(規範)として機能するのである。したがってこの点については、ガイドラインのかかる記述が(後続の文書等により実質的に行うのでかまわないので)撤回され、その種の行動はあくまでも全体の判断枠組みのもとで判断材料の一部を構成するにすぎないこと、また、不正行為として禁止されるのはあくまで前記「4点」であることが正しく述べられることが必要であると考える(既に準備しているところではないかとも推測するが、改めて表明するものである)。

教養学部が発出する文書というテクストの位置

今回出された「ガイドライン」は、教養学部が公的に発出した文書である。したがってそれは、それ相応の規範性をもって受け止められるのが当然である。いくら制度設計において考慮していた事情があろうが、一定の運用に関する方針を内部で定めていようが、ひとたび文書として出されたものに書かれていなければ、それはないのと同じである。少なくとも外部からは観測できない。外部から観測できない以上、客観的な判断をするべき場面が来れば、ないとみなすほかない。むしろ後から内部の事情を持ち出して判断が行われるようなことがあれば、それは後出しジャンケンになってしまう。そして逆に、それが書いた者の意図と異なっていようが、書かれたものは書かれた通りに運用されるべきである。または、仮に文書を好意的に読むことができるとしても、それがどの程度意図されたものでありどの程度実現されるものであるかは明らかでなく、むしろ明確に書かれている以上のことについては明示的に言明(約束と言い換えてもよい)されなかったことであるのだから、結局は警戒的に読まざるを得ない。それが、学部が、成績評価という一定程度学部の専権に属する事項について、文書として発出するということの意味である。

この点について意識的になって読解している学生はおそらく多くはないけれども、無意識的にであろうと、そのような読まれ方をするのは当然のことである。学生と学部との間に権力の非対称性があれば、それは学生が学部側の発出した文書を変更したり明確化したりする余地が小さいということであり、また、不明確な点について学部側が恣意的に運用する可能性が否定できないということでもあるから、なおのことである。

前稿でも本稿でもガイドラインの表記や表現について何点か指摘をしたが、それは、このような観点を踏まえた上でのことと理解されたい。そして、学部は、成績評価に関して(そうでなくとも)文書を発出するにあたっては、その表現の細部を含め、慎重に行うべきであると考える。(この点についての立場の違いによる認識の違いは、学部側の想像している以上のものではないかと考えるところでもあるが、私個人の心証にすぎないかもしれない)

追記

(2020年7月10日)2020年7月7日に「オンライン試験クイックガイド」が公表された。また、2020年7月9日に「2020年度Sセメスター定期試験・レポート・小テストのガイドライン(改訂版)」が公表された。

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