東京大学教養学部(前期課程)「2020年度Sセメスター定期試験・レポート・小テストのガイドライン」の問題点

この文章は、2020年6月25日に発表された東京大学教養学部(前期課程)「2020年度Sセメスター定期試験・レポート・小テストのガイドライン」について、私の個人的な立場から、考えうるであろう問題点を書き記すものです。

私自身は東京大学工学部の3年生であり現在は教養学部の所属ではなく、その意味では当事者ではないのですが、この3月まで教養学部の所属だったということ、学部は違えど同じ東京大学に所属する者として、という点から書いています。また、東京大学のとる方針は、一般に国内の他大学において広く参考にされる傾向があることから、この点からも問題点を記すことに意義があると考えるものです。逆に、私は当事者ではないため、東京大学教養学部に対して私自身から具体的な対応を求めることを意図してこの文章を書いたものではありません(そのような文脈でこの文章が参照されることを想定していないわけでもありませんが)。また、あくまでも私の個人的な意見ですので、考えられる問題点のすべてを列挙したものではありませんし、現在の教養学部前期課程の学生が感じている問題点と完全に一致するものでもありません。

なお、以下に挙げた懸念の一部については、2020年7月2日および6日に開催される「オンライン試験相談会」において取り上げられる予定であるようです。懸念が解消されることを望むとともに、これに参加していない学生を含むすべての前期課程学生に対し適切な説明がなされることが必要であると考えます。

実行不可能であること

まず端的に、このガイドラインの中で要求されている事項を実行するのが不可能であるという指摘がTwitterなどで散見されます。これは特に「C方式」について言及されていると思うのですが、ここには「手が映像から外れた場合は不正行為とする場合がある」という、つまり試験が行われる105分間ずっと手を机の上に置いておけという指示があります。また、「A方式」でも「パソコンや参照資料から視線を外した場合」として同様の記述があります。しかしながら、人間は身体をそのようにコントロールするようにはできていません。人間は数分に1回顔を触るのだ、というような言説も最近の情勢でときどき見かけるところですが、手をどこに置いておくかなどというのは無意識下のものであって、それを意識し続けろというのは、しかも試験という条件においては、過酷な要求に他ならないと言わざるを得ないと思うのです。(さらに言えば、このようなことについての感覚には大きな個人差があると予想されるわけですが、これは試験そのもののパフォーマンスへの影響に効いてくるのは否定できないと考えられ、この点についての考慮もされていないように思われるのです)

特定の条件にある者に不利益であること

今回の試験方式には、特定の条件にある者が不利益を被ることが避けられないという問題があると考えます。(もちろんどのような試験においてもそのような点があるのは当然のことなので、これは、そのような構造を制度に埋め込むことについて許容されると認識されるのか、という問題になるわけですが)

自室がない

まず挙げたいのは、この試験方式は、自分一人だけの自室のあることを前提としてはいないか、ということです。もちろん、そもそもオンライン授業そのものについて自室のない学生にとって厳しいものであるし、具体的な方式によらずオンラインで試験を行うとなればそれそのものもそうである、というのも事実でしょうが、今回の試験方式では尚更ではないかと思うのです。つまり、不正防止のために厳格なルールを運用するということは、これについて同居する人の理解を得、協力してもらう必要があるということでもあるのです。もちろんルールがなければ同居人が何をしてもいいというわけでもないでしょうが、不正行為とする可能性を明示的に述べたテキストで定められたルールがあることは、受験者に(そして同居人にも)負担を生じさせることになるのではないかと考えるところです。なお、事情のある場合にはキャンパス内でも受験できることになっていますが、そもそも上京が難しい学生の存在は当然に想定されているところですので、これを皆が利用できるわけではありません。

多動傾向

それからもうひとつ、Twitterで私のまわりで指摘されていたのは、「多動傾向」をもつ学生について、でした(どう表現するのがよいものかよくわかりませんが)。これに関しては私自身思い当たる節が多々あり、試験中に腕を頭の後ろに回したり空中に図形を描いて数学の問題を考えたりという感じですが、こういったことは今回の方式(というより対応姿勢というべきか)では不正行為と認定されかねないわけです。当然ながら、教室における試験においてもそういった行動によって不正行為と認定される可能性が皆無とはいえないわけですが、今回のガイドラインでは、上で述べたように、「手が映像から外れた場合」「パソコンや参考資料から目線を外した場合」に不正行為とされる可能性がある旨が提示されており、通常許容されるものより厳しい基準となることが既に明らかとなっています。さらに、そもそもオンライン試験では、不正行為か否かは基本的にカメラ越しの情報をもとに判断されると考えられ、つまり同じ空間にいるという機微のようなものを共有することなく、形式的な動きの状況だけで判断がされる、という点も考慮する必要があると考えます。

この論点に関する補足

なお、不正行為の認定は、必ずしも画一的に特定の行為が観察されたことをもって行うのではなく、個別の状況を調査して厳正に行う、というような反論があり得ましょう(実際、「不正行為の認定は、複数の教職員の調査を経て慎重に判断されます」と書かれています)。そうはいっても、本人が不正を行っていないと自信を持って言えるのであってもその証拠を提示することは困難なのであって、そもそも一般に不正を行ったまたは行っていないことを証明することそのものが困難なのであって、そうである以上、不正か否かの判断は間接(状況)証拠をもって総合的に行われるはずです。となれば、何をもって不正と認定されるかを学生側が予期することは困難であり、ガイドラインにおいて「不正行為とする場合がある」と明確に名指されている行為であれば尚更でありましょう。

この手の問題は、個々人によって抱える事情はさまざまであり、したがって「見えづらい」問題であって、関係者間で認識の差異が生じやすい性質を持つので、この点こそまず積極的に議論として取り上げられなければならないものだと思います。しかしまさにその理由により私にすべてを指摘することはできないので(当事者やそれに近い人々の発信に頼らなければならない部分であるということでもあります)、ここでは2点だけ指摘するにとどめ、他の論点に移ることにします。しかし、ここで挙げた2点はあくまで例示であって、私が述べたいのは、これらに対する個別的な反論をするのではなく、かように個人がさまざまな状況を抱えていることを認識した上で、なるべく特別扱いをせずに対応できるよう総合的に制度を設計することが必要である(すぐに全面的には無理でも、そのような姿勢を示してほしい)、ということであることは念押ししておきたいと思います。

個別対応では不十分であること

このように個人の条件(環境)によって不利益があることに対しては、おそらく「事情のある者については事前に申し出れば個別に対応する」という反論もあるでしょう。実際ガイドラインにはそのような旨が何度か書かれています。しかしそれはまったく不十分で、対応になっていないことをここに書き記しておきます。

まず、個別対応を受けるためには個別に申し出なければならないということそれ自体が、好ましくないものであるということです。個別対応を受けるためのやりとりそのものが学生にとって負担であるからです。ただでさえオンライン化に伴って課題が多いと言われているおり、教養学部としてもそのことを認識しているという中、さらに試験において個別対応を得るための連絡をしなければならないというのが負担でないということはできないでしょう。また、単純な時間的な負担もそうですが、心理的な負担もあると考えます。というのも、特別対応が必要であるということそれ自体が自身が例外的であり、教養学部の想定から外れた存在であるかのように思わせる事態である、ということができると思うのです。

さらに、そもそもこれらの個別対応がどのように行われるかは明らかではありません。上で述べた多動傾向のようなものについては、客観的な証明をすることは(現在の社会状況では比較的)困難ですから、何ら対応がなされない可能性もあります。その上、この点についての学部側の判断は、ブラックボックスに近いものとなることも懸念されます。そのような事態が好ましいものであるとは決して思いません。(付言すると、この類の観点については、オンライン化が進行する以前から、東京大学の支援枠組みから外れていたように思います。すなわち、明確に「障害者」を線引きして、これに該当する者にのみ特別対応を行う、というのが基本的な枠組みになってはいなかったか、と思うのです。しかし、このような仕方は「多様性」を支えるためにはまったく不十分な枠組みで、これから変えていかなければならないものではないか、と思います)

行動を制限することそのものについて

これまでにも述べてきたように、今回のガイドラインでは、「パソコンや参照資料から視線を外した場合」や「手が映像から外れた場合」は「不正行為とする場合がある」が書かれています。これはただちに、「そのようなことはするな」という命令(規範)として機能することになるわけであり、すなわち学部側が学生の行動を制限していることになります。もちろん、試験という制度を成立させるためには一定の制限が必要であることは当然で、それ自体は通常の教室における試験においても同じです。しかしながら、私自身このガイドラインを読んで、大変強い抵抗感を覚えたところであり、同じように感じた人も少なくないのではないかと想像しています。

それでは何が問題であるかというと、おそらくふたつほどの論点を考えることができて、ひとつは、このような制限は抑制的であるべきということです。ガイドラインでは「プライバシーに関する考え方」として必要最小限度の範囲で行うものであるのでプライバシーに関しては許容される、と述べています(この点そのものについても後で述べますがここではおきます)。同じことがこの行動の制限という論点に関しても妥当するでしょうか。その判断については保留しますが(個人的には懐疑的ですが)、仮に許容されるのであったとしても、最低限学部側からの十分な説明があることは前提ではないかと思料する次第です。(それどころか逆に、個人的な印象としては、このガイドラインは、行動を制限するのに際して、何らの躊躇もなく決めてしまっているのではないか、とさえ感じているところですが)

もうひとつは、このような行動の制限が通常の教室における試験の場合と本質的に異なる点があるということです。すなわち、(当たり前ですが)オンライン試験では学生が試験を受ける場所は教室ではなく各自の自室であるということです(自室に限らず、個人のプライベートなスペースやそれに近い環境、というべきか。もちろんそうでない人もいるでしょうが)。そのような空間は、個人にとって自由が確保される場所であって、重要な場所であると言えるでしょう。そうすると、そこにおいて、行動を強く制限するような今回の方式は、個人の空間を侵食する性質を持つものということになります。というわけで、同じ試験に伴うものだからといっても、公共性の高い教室という空間で行われるものと同じに見てはいけないものであると考えるのであります。

必要性に関すること

そもそもこのような厳格な試験がなぜ必要なのでしょうか。進学選択があるからです(そのために、試験を厳格に実施しなければならないのに、日程の変更も許されないという過酷な状況に置かれているわけです)。しかしながら、そもそも、教養学部の掲げるリベラルアーツの理念と、履修した(ほぼ)全科目の成績をもって進学先を決定するという進学制度とが根本的に相容れないものではないか、という指摘はたびたびなされているところであると認識しています。もちろん、本年度実施する進学選択の制度を直ちに変えることはできないのは私も理解するところですし、今セメスターに関してはやむを得ない部分が大きいところでしょう。とはいえ、上記のような根本的な論点についてまったく言及することなく、進学選択のための厳正な成績評価がまるで所与であるかのような態度は、個人的にはいかがなものかと思うところで、このような危機的な事態であればこそ、かかる論点について真摯な言及があることを期待するところです。

その他の論点

不正を防げないこと

今回の方式では、受験者に不便(の一言で片付けていいかはおくとして)を強いていながら、不正をしようという動機のある者がその気になれば不正をすることが大きな困難なくできてしまうのではないか、という指摘もあるように思います。実際、マイクはミュートとの指示ですので、カメラの視野外で協力者が音声で助言をするといったことは比較的容易であるように思います。不正が許されないのは当然としても、不正が行われないことを担保するのが実際上困難なのであれば、中途半端に不正防止策を導入するのではなく、制度設計そのものを変更するのが本来なすべきことであると考える次第です(もちろん、さまざまな事情を考慮した結果やむをえず、ということであるのも理解はするのですが)。

「プライバシーに関する考え方」について

ガイドライン中の「プライバシーに関する考え方」について。ここでは、プライバシー権の概念を踏まえて、今回の方式がプライバシー権の侵害にあたらないと学部側が判断している旨のことが書かれています。これ自体については一定の妥当性のある内容であると思いますが、しかしながらこの文章は、法的にプライバシー権を侵害しなければ、言い換えれば違法ではないから問題ないのだ、という態度であるようにも読めます。そうではなく、なるべく学生に納得してもらえるよう、十分に説明を尽くすというのが真摯な態度ではないでしょうか。

また、「目的が正当であること、手段が必要最小限であること」といいますが、当然のことながら「手段が目的の実現のためのものであること」もあると解されると考えます。上でも述べたこととも重複しますが、この点について(この手段によって公正な試験が実現されるかどうか)は説明が尽くされていないように思います。

策定プロセスの問題点

策定プロセスに関しても問題があると考えます。先に述べたように、今回の方式は(というか、もちろんどんなオンライン試験においても、ひいてはどんな試験方式の変更においても)、学生おのおのが抱える状況によって意味するところが大きく変わるものです。であればこそ、その策定にあたっては、学生から広く意見を募り、あらかじめその問題点について把握してから決めるということが必要であったと思うのです。

性悪説/無罪推定の原則/非対称性の問題

以下は心証の問題に属する部類かと思いますのであまりフェアな論点ではないかもしれませんが、一応述べておくと、このような厳格なルールを定めて試験を行おうとすることは、すなわち誰もが不正行為を行う可能性があるとみなしていることであるので、一種の性悪説の立場に立っていると言えます。やむを得ない部分もあるとはいえ、正直、学部と学生の間の信頼関係を損なわせるという悪影響があるのではないかと思うところです(以前からそのような面はあったように思います)。

それから、不正行為の認定にあたっては、いわば推定無罪の原則が適用されるのは自然なことではないかと考えますし、これは学部側も多かれ少なかれ考えているところではないかと推測しますが、ガイドラインの書き方は、「不正行為とする場合があります」と書いてあるもんだから、まるで特定の行為を行っただけで直ちに不正行為と認定されるかのように錯覚してしまうと思うのです。書き方の問題もありますし、もう少し不正行為の認定に関することがきちんと説明されればいいのにな(不正行為の抜け穴を教えることにもなるので難しそうですが……)、とも思います。

そして最後に非対称性の問題。学部側が多少無理な方針を出そうとも、多くの学生はだからといって単位を得られず留年する事態になるのでは困りますから、従うしかないのです。それであるのに、今回のような方針を一方的に定めるのが、いかに暴力的であることか。あなたがたの方針に皆が従うのは、あなたがたの方針が素晴らしいからではなく、あなたがたに力があるからです。学部側はこの点に自覚的でなければならないのではないでしょうか。

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(2020年7月5日)東京大学教養学部(前期課程)「2020年度Sセメスター定期試験・レポート・小テストのガイドライン」をめぐる一論考

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