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ride&hurt

最初の乗り物、三輪車は兄のものだった。時折気まぐれに貸してもらう程度で、乗り回した記憶はあまりない。運転手が漕いで後ろにどのようにしてだか後ろ向きにもう一人乗って、蝋石で地面に線を引いて行くのが流行っていた。兄は三輪車の後ろから転げ落ちて、左腕を骨折した。

小学校の校庭の隅に、大型トラックのタイヤが半分埋めてあった。跳び箱のように飛んで遊ぶものである。身体が小さな低学年には飛べそうもない大きなタイヤは、犬のションベン飛びといって、片足だけを上げもう片足は地面についたまま飛んだふりをするのだ。これをしていた私はある時バランスを崩して顔面から地面に倒れた。気がつくと血だらけで、小石か何かで唇を切ったのだった。保健室へ慌てて全力疾走したものだから、さらに血がダラダラである。ところが放課後だったので保健室は誰もおらず、どうしたものかと血だらけのままウロウロしていたら、別の先生が見つけてくれたのだが、あまりの流血に先生もパニックである。結局校区内の外科医院へ連れて行かれ、三針ほど縫われた。自宅にも連絡がいったが、折悪く母は不在だったらしく、先生が付き添って下さった。縫うといっても麻酔も何もなく、いきなり寝かされ目隠しされ四方から押さえられてである。しかし私は大事になってしまって母に叱られることの方が怖かったので、泣きもせず耐えたのであった。

中学生の頃、近所にニッパとあだ名の男の子がいた。その界隈では珍しく地元の子で(新興住宅地なので他所からの移転組がほとんどだったのだ) お兄ちゃんがヤンキースタイルで、彼もそのスタイルを倣いつつあった。見た目はイカツイが、話してみると優しくて思いやりのある子だった。何で仲良くなったのかは覚えていない。ある日彼の自転車の後ろに乗せてもらっていた。崖のような急斜面をつづら折りにバス道があり、川を挟んで団地が建っていたので、つづら折りの道がよく見える。ゆずの歌のように坂道を下っていたのだが、ウチからよく見える場所に差し掛かった時に、お母さんに見つかったらなんて言われるか!と、咄嗟にヒラリと飛び降りた、、、つもりがつんのめってベシャリと地面に叩きつけられた。顔面と手足が擦り傷だらけになったが、あまりにも恥ずかしかったので、痛みを堪えてヘラヘラ笑った。ニッパは笑うどころか、すごく真面目な顔をして心配してくれた。自転車は押して一緒に歩いてくれ、家まで送ってくれたのである。まぁその後特にラブロマンスになることもなく、高校も別々になり、たまにバスで会う程度になった。ヤンキーに磨きがかかり、学校に馴染めない様子でだんだん眼つきが鋭くなっていった。風の噂で高校はやめてしまったと聞いた。

高校を卒業してすぐに原付免許を取った。駅までがバスでしかも坂道なので、自転車では不便なのである。駅から山に向かって川沿いの道がある。山の中腹のマンション群へ向かうにはこの道しかない。川は道路から3メートルほど下を流れており、道路の端にはガードレールもなにもない。途中一箇所だけ信号がある。ある夜原付バイクで走っていた。雨の日だった。信号で止まろうとブレーキをかけたら横断歩道のペイントの上で滑ってしまい、バイクはクルクル回ってどこかへ飛んでいき、投げ出された私も濡れた道路で制御を失って滑って行った。ギュッと閉じた目を、止まったところでそっと開けたら、道路の縁ギリギリで、川の流れる音がすぐ近くで聞こえた。幸いに後続車もなく、泣きながらバイクを立て直して帰ったのだった。大した怪我もなかったが、死ぬかと思った。

ハタチを過ぎると中型二輪の免許を取り、250ccのバイクに乗った。行動範囲が広がり、ひとりであちこちへと走りに行った。しばらくして新しく入った職場にバイクに乗る人が数人いて、一緒にツーリングや走行会へ行くようになった。それはまだ、そんな仲間と出会ってすぐの頃で、その時は単独で播但のほうへツーリングへ行っていた。とある峠に差し掛かった時、コーナーでジャリに後輪をとられ、転倒した。全身を道路に打ちつけしばらく呼吸ができないほどだった。やってしまった、、、誰か助けて、、、としばらく倒れたままだったが、後続の車が来る気配もなく、カラスがカーと鳴いただけだった。ノロノロと起き上がってみると、右膝のズボンが破れて裂傷、右手も痛いが革のグローブのお陰でひどい怪我ではない。オートバイはというとフェンダーが捻れ、アクセルレバーが折れ、ウィンカーが割れてタンクが凹んでいた。エンジンはかかるが家からは高速道路の距離である。ウィンカーだけでも直さないという整備不良で公道が走れない。しばらく考えて、なにはともあれ峠を降りよう、一番最初に見つけたガソリンスタンドに助けを求めようと思った。

曲がったフェンダーのせいでハンドルを微妙に傾けながら、慎重に峠を降りた。結構な山中で峠を降りてもなかなか街にたどり着かなかった。それでも見つけたガソリンスタンドでウィンカーだけでも直せないか聞いてみた。そこではどうにもならず応対のお兄ちゃんが、バイク店を紹介してくれた。そこへ行けば何とかしてくれるだろう、と。地図を描いてもらい、知らない田舎の街を不安でいっぱいになりながら走った。

着いてみると小さなバイク屋で奥はお宅だった。梅宮辰夫そっくりの無愛想なおっちゃんが出てきた。事情を説明し、高速道路を使って帰りたいと伝えた。無愛想にバイクを点検してから、奥には嫁と娘しかおらんから、ズボンを脱いで膝を手当てしてもらえ、と言った。中学生ぐらいの娘さんと優しそうな奥さんがいて、消毒とガーゼを貼って下さった。店の方に戻ると、捻れたフェンダーを戻すのに壁にぶつけてなおしていた。随分乱暴なことするんだなぁ、大丈夫なのかしら?と思ったが、あとで整備士の友人に聞いたらそれでいいのだと言われた。1時間ほどかかっただろうか、凹んだタンク以外は直り、無事に高速で家までたどり着いたのだった。バイク店の看板から電話番号を控えていたので、無事に着いたことと改めてお礼を伝えると、梅宮辰夫は無愛想だったがなんとなくホッとした雰囲気が伝わってきた。しばらくビッコをひき、全身筋肉痛に身悶えたが、バイクは乗り続けた。


これを書いていて思ったのは、人は優しいのだなぁということだ。私が本当に困っている時、無愛想でも、いかつくても、親身に出来るだけのことをしてくれる人がいるのだ。その時私は格好悪くて情けなくて、けれどもそのカッコ悪さに降参してしまっている状態だ。そんな時は素直に助けを受け取れるから、助けてもらえるのだろう。この後の私はひとり暮らしをし、仕事をしていく中で、この降参ということを避けるようになってしまった。失敗しないように、キチンとし、頑張るのである。するとあら不思議、あなたはしっかりしているからと助けられるのではなく、助ける方の役回りばかりくることになってしまうのだ。

あまりのカッコ悪さに情けなさに半泣き半笑いで降参するあの感じ、力の抜けたあの感じを、思い出してみようと思った。

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