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脱出譚

見習い期間が終わると、お給料が二桁になった。とはいえ、10万円とちょっとぐらいだったと思う。


バイトや仕事をし始めて、親に対してずっと拒んでいたことがある。収入の公開と、家にお金を入れることである。


あなたのためにと、私名義で積み立てられたお金はいつの間にかなくなっており、これはそもそも親の金なので、まだ良しとしよう。

父方の親戚に資産家で子供のいない女性がいて、この人から学費の援助を受けていた。ところが、結構キョーレツなキャラクターのおばさんで、母とは犬猿の仲なのである。いくらぐらいをどれぐらいの期間もらっていたのかは知らない。
ただ、あくまでも私たち兄弟の為に、という名目でだ。
援助を知った時、勝手に自分を名目にされて嫌だったので、やめてほしいと言ったのだが、母はなんだかんだ言い訳をして断らなかった。

私は結局下宿もせず、アルバイトを始めてからはお小遣いは自分でまかなっていたし、父もキチンとしたサラリーマンで、特に趣味もなく、飲み歩くような人でもなかった。兄も親孝行なことに国公立の大学に自宅通学である。
一体何にそんなにお金がかかるのか、不思議だった。

しかし、とうとうケンカして、その援助は打ち切りになったらしい。勝手に受けて勝手にケンカして、打ち切りになったから縁も切る、アナタもあの人に関わるなと言う
知らんがな、である。


そんなにお金に困っているのかと、成人式はスーツでいいと申し出たら、涙ながらに、ムスメに成人式の着物を買うのが夢だったと言う。

母は女ばかりの5人姉妹の末っ子で、上から嫁に出す度に嫁入り支度をするので、自分が嫁に行くときには、ロクに着物を持たせてもらえなかったと、何度も言っていた。着物着物と、着物に恨みがあったのだろう。
かと言って自身が着物を着る機会など、そうそうないもので、その分ムスメの着物!となったのだろう。
まあ、ここまでは理解できる。

涙ながらに言うからには、ははんなるほど、そのお金を貯めてるから、援助も断らなかったのか。それならば、黙って買ってもらうだけで母の気がすむのならと、展示会へ行ったのだった。

こっちはそんなつもりだし、悪いことに母の見栄張りが発動してしまい、店員さんの勧めるままに勝った振袖は、良い品なのは良いのだが、それなりのお値段だったのだ。

ところが、フタを開けてみると、母は大したお金も貯めておらず、ほとんどがローン払いだった。

成人式も終わってしまうと、着物熱はすっかり冷め、毎月の支払いだけが残り、それをグチグチと言われ、支払いを軽減するために家にお金を入れろと迫ってくるのだ。

騙された気分だった。信じた私がバカだった。
私の為にと金を使って文句いうなら、母さんアンタが好きな着物を買えば良かったんだよ、、、


ずっと家を出ようとは思っていたが、この件が最終的に後押しした。
私もどちらかというと、あるお金は使うタイプなのだが、家を出るためのお金を貯め、自分で家具を買ったりもした。家にお金を入れないかわりに、早く家をでて自立をしよう。そこからお世話になることがないなら、そっちの方が親孝行だろうと、自分に言い聞かせたのだ。


お給料が10万とちょっとになったその時に、家を出たのだ。

自分なりに考えて、大学がある街ならば、安い下宿があるはず。庶民的な商店街があれば物価も安く生活しやすいだろう。そんな視点で、目星をつけた街へ実際に行き、電信柱によく吊り下げられている不動産のチラシを集めたりして、家賃の相場を調べたりした。

そんなことをしていた頃に、アトリエの先輩であるユリさんの家に遊びに行った。ユリさんは一人暮らしで、駅からは離れていたが、近くに大学があり、駅前の方には庶民的な、結構大きな商店街があった。そしてアトリエからは地下鉄で乗り換えなしで行けるところだった。

その街で、家賃1万3千円、四畳半一間、共同トイレ風呂なしの部屋を見つけた。一階は大家さんで、昔ながらのいわゆる下宿屋さんである。

引っ越しは、バイク仲間がワゴン車を出してくれて、荷物も運んでくれた。何ということはない、もともと四畳半の自宅の私の部屋が、四畳半の下宿屋さんに移動するだけなので、大した荷物はないのである。
冷蔵庫は別の軽トラで、誰かがどこからか調達してきてくれた。家電は天下の回りものなのである。

引っ越すことを親に言うと、私が自分で買った家具や衣類以外は持ち出してはいけないという。帰ってきた時に布団がないと困るからという理由でだ。
帰る気などサラサラないし、顔は出しても泊まる気もなかったが、そんなことを言って出してもらえなくなると困るし、まぁいいやと適当に従った。
すると今度は、夜中にこっそり荷物を運び出せと言う。近所の人に見られたら恥ずかしいからと言う。これにはさすがに怒って、人を犯罪者みたいに言うな!と厳重抗議した。
この辺のバトルは母とであり、父はずっと空気のようだった。

運び出すのに30分とかからず、あっという間だった。
下宿に運び込んで、しばらくみんながいてくれたが、夜になって帰る時、初めての一人暮らしで寂しくない?と心配されたが、私は開放感でいっぱいだった。なんの不安もなかった。
四畳半だけれど、のびのびと広く感じたぐらいだ。

バイクは、近所の駐車場に、そこの大家さんに交渉して、月五千円で置かせてもらえることになった。その大家さんのおじさんも、アメリカンバイクのオーナーだったのだ。知らずに飛び込みで交渉しに行ったら、快諾してもらえた上に、会うとバイクの話をしたりするようになった。


アトリエでT氏に、家を出ることを伝えると、お給料の額を知ってるだけに、そんな額でやっていけるわけがないと、最初は反対された。しかし、下宿屋さんであることと、その家賃を告げると、しばらく考えて、やっていけるか、、、と呟いたのだった。
お給料だけでも充分やれたのだが、一応許可をもらって、アトリエの仕事の後に、喫茶店でアルバイトを始めた。
アルバイトの収入は、グレードアップしてマンションに引っ越すための貯金にまわした。


時はバブルの後期である。
テレビはなく、電話は下宿の共同電話で、呼び出しである。
五徳をでっかくしたような一口コンロと小さな流し台が部屋にあり、自炊した。
クーラーはない。
風呂は銭湯である。
世間とかけ離れた片隅で、いつの時代かという暮らしだったが、ひとりが、ひとりでいられることが、たまらなくありがたかった。仕事とアルバイト以外の時間はひたすら自分と向き合う時間だった。
自分自身と神田川みたいな新婚生活を送っているようなものだった。


ある時、風邪をひいて、一週間ほど寝込んだ。テレビもない部屋で、こんこんと眠り、回復して、街に出ると、なんとなく世界が変わった気がする。職場へ復帰して、なんだろうね?と話をすると、天皇陛下が崩御されたのだと言う。
that's昭和な部屋に籠っている間に、昭和が終わっていた。


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