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奥さん

朝、アトリエに行くとまず全員で掃除をする。T氏は喘息の既往があり、工房は綺麗で埃っぽいところがない。
粉塵の出る作業をする場所には全て、集塵機が付いている。
掃除が終わると、喫茶コーナーのテーブルで、奥さんが入れてくれたコーヒーをゆっくり飲む。
T氏は夜型で、遅くまで仕事をすることが多く、その代わりに朝は工房の方には出てこないことが多い。
それから、仕事が始まり、お昼は奥さんは奥の自宅で炊事をし、私たちは外食に出たりお弁当を食べたりする。
また仕事をしたかと思うと、3時にもう一度コーヒータイムがあるのだ。
よほど納期が差し迫った仕事がなければ、だいたい2時間に一度ブレイクタイムを取っているのだ。
火や刃物、バフ掛けといって高速で回転する機械を使うので集中が途切れると危険なことと、適度に休憩した方が効率が上がるというT氏の理論により、そのようなことになったらしい。

T氏も奥さんもネコ好きで、多頭飼いしていた。
夫妻が自宅に引っ込めば、ネコたちも自宅の方へ移動し、工房に出てくると、猫たちもゾロゾロと出てくるのだ。
また、外への出入りも自由である。
家の外にも野良猫が多く、ご飯のお世話をしている外ネコ達を含めると、10匹近くがいた。
周辺にはお寺が多く、街中とは思えないのんびりした雰囲気があり、野良猫、野良犬がウロウロしていたり、ときにはニワトリが歩いていることもあった。

T氏の奥さんは当時で40歳手前ぐらいだっただろうか。
決して愛嬌を振りまくタイプではないが、おおらかなところがあって、人を批判したり悪く言うことのない人だった。
T氏にとっては二度目の奥さんで、3人いる子供の上の2人はいわゆる継子の関係であり、苦労もあったようだが、そのおおらかで楽観的な性格からか、3人の兄弟は仲良く、家族間はオープンな雰囲気だった。
熱烈なビートルスファンであり、ジョンレノンフリークであった。
30以上は信用するなの、信用しない方の人である。


家を出た後も、母親から電話はしょっちゅうかかってきていた。
どんな所に住んでいるのか親として見ておかないと、と下宿に来たこともあったし、同じ理由でアトリエに来たこともあった。

兄が帰省中に、どこでもらってきたのか水ぼうそうになったことがある。発症直前に同じく家に戻った私とほんの半日ほど一緒にいただけなのに、しばらくして私も発症してしまった。
この時は仕方なく家に戻ったのだ(ウロウロして他人様に移してはいけないと思ったのだ、一人暮らしで全く外に出ないわけにはいかないのだから)。
熱で朦朧とする中、兄も連れて行ったという病院に連れていかれた。呼ばれて診察室に入ろうとすると、なんと母親も当然だとのようについてくる。私の代わりに先生にベラベラと経緯を話した挙句、発疹を見せるために私の服をめくったのだった。弱っていたので、対抗する気力もなく、ハタチも過ぎて子供扱いされることに情けなくどーんと無気力になりながら、兄にもおんなじことをしたんだろうか?したんだろうな〜、あ〜キモチワリィ、先生はなんとも思わなんだんだろうか、などと考えていたのだった。
それ以降、どんなに高熱を発しても決して家には帰らなかったし、病気になったことすら隠していた。

どんなに離れても、母親の影を振り払うことができず、この人はいったいどこまで私を追いかけてくるのだろうか?いっそ海外青年協力隊員にでも応募して、電話すらも繋がらない僻地に行ってしまおうかと考えたりもした。


その頃は、フラッシュバックのように、突然母への怒りの感情が湧き上がり、あんなことをされた、こんなことを言われたとぶちまけることがあった。
奥さんは、諭すでもなく、否定するでもなく、淡々と聞いてくれていた。
感情的な私に対し、まるでプロのカウンセラーのように、淡々と聞いていた。

ある時、「アンタ、失敗して出来た子なんや」と言われた。

妊娠出産の経験がまだなかった私には思いいたらなかったのだが、私と兄は出生日が12ヶ月しか離れていない年子である。奥さん曰く、続けて妊娠出産すると母体への負担も大きいので、普通は続けて出来ないように調整する。昔なら授乳期は生理もなく妊娠しにくいので自然と2年ぐらい間隔ができていた。
産後2ヶ月で妊娠するのは、たぶん、作ろうと思ってじゃなくて、失敗して出来た子なんやで、ということを説明してくれたのだ。

なんて明け透けに、なんて酷いことをと、知らない人が聞くと思われるだろう。
けれども、コンコンと話を聞き続けてくれて、否定もせず、ただただ受け入れてくれて(T氏に一度、母への不満を漏らしたら、この親不孝者、親の悪口を言う者に人格はないぐらいの反応をされたことがある。当時はT氏に限らず、ほとんどがそのような反応をするので、こんな風に聞いてもらえることの方が珍しかったのだ)、そしてなによりも、同情もなかったのだ。かわいそうとか、そういう類のコメントもいっさいなかった。

そうしてある日思いついたように、この話をしたのだった。

目からウロコが落ちた。

そうか、そうなんだ。
失敗して出来た子なんや。
全てが繋がり、全ての合点がいった。

もうなんか、どうにも仕方のないことなのだ、最初の始まりがそんなだから、もううまくいかなくて当たり前やん、と思うとなんだかドッと肩の力が抜けたのだ。

それで全てが一気に解決したわけでもなく、その後も母とのバトルはつづいたのだが、一つの大きな転換期にはなった。
責めるということから、離れることができたのだ。母と上手くやれない自分を責めることもやめた。
母を変えようとせず、自分も責めたり変わろうとせず、新しい関係を構築することを目指すキッカケになった出来事だった。

最近の心屋さんとか、ナリ心理学とかも顔負けの、奥さんの解決アンサーだったのである。


奥さんとはその後、友達のような関係になり、長くお付き合いさせていただいた。
天真爛漫で、ジョンとネコをこよなく愛し、あたりんぼで、クジや抽選にもよく当たるが、食べ物にもよく当たってしまっていた。
その天真爛漫さとは裏腹に、晩年は苦労が多く、50代で、病気で早世してしまった。
奥さん以降に私には、友達はいない。

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