飛行機のおなか
羽田の飛行ルートが変わって、豊島区上空をジャンボジェットが低空飛行するようになった。
2020年東京五輪のインバウンドを見越した施策だったはずで、五輪が中止の可能性を孕んだ延期になったのと、そもそもコロナ禍でインバウンドに期待できない今となっては、new飛行ルートの必然性は失われたと思う。
この新ルートについては事前に反対運動があった。墜落までいかないまでも部品の落下などの懸念を示して共産党をはじめとする左派勢力が勉強会をし説明を求めてきた経緯は知っていた。僕も以前は左派にコミットしていたし、当初この計画に反対の方で考えていた。署名にも一筆参加した。そもそも僕は基本的に現政権に批判的な立場だからアンチの方向で考えるのが常で、その文脈で考えていた。
飛行機が僕の頭の上を行き交うようになってしばらく経つ。どこから飛んできた機体なのかはわからないけど、空気を切るジェットエンジンの音が聞こえるとつい空を見上げてしまう。みんなおなかが白くてカワイイ。鳥というよりは虫かな。虫は機械と生物の間と誰かがTwitterで書いていた。哲学者の千葉雅也だったかな。飛行機は機械と虫の間のようだ。
昔、ボーイスカウトのキャンプで行った伊豆大島では飛び立つ飛行機を真下から眺めた事がある。まさに離陸する真下で見た中型機の迫力は今思い出しても興奮する。鉄の塊が人間の叡智で浮かび上がってしまうのだよ。その時は怖いなんて思わなかった。
むしろ「怖い」と思う事自体、飛行機の整備士の仕事を信頼していないということなのではないか。もちろんそれは100%安全を保証するものでは無い。そもそも100%の安全などというものが実現したことなんか無いにも関わらず、命の安全を国に求める。
本当はこの世界自体、危険なことが溢れている。自動車なんか危険物そのものなのに、僕たちは何も気にすることなく生活の一部として受け入れている。今話題の感染症だってそうだ。様々な感染症と人類は共存して生きてきた。新型コロナウイルスで見えないものが人類の最大の敵のようにそこにいるような感覚に苛まれている。人間の理性では太刀打ちできないことだってある。
先日高校の友人の訃報が入った。コロナウイルスでも交通事故でもなく、くも膜下出血による事だそうだ。同い年だ。
人間は丈夫だが突然あっさりと死ぬ。また弱いと思っていても案外生き続ける。すべては偶然、神の采配でしかない。そこには一切の必然性なんかなく、不条理に行ったり来たりする。それらは国は保証してはくれない。というか保証なんかさせるのは無理だ。
今日も出かける時にいくつかの飛行機が頭上を飛んで行った。もちろん生きている人を乗せて羽田空港に着陸しに。その都度ボクは空を見上げた。そういえば最近よく空を眺めるようになった。
ボクは整備士の仕事を信頼する。そしてその結果は生きている限り引き受ける。引き受けてボクは繰り返しの毎日を淡々と生きていくのだ。
空には死者が飛んでいく先があると人間は想像する。曇りの時もあるが今日は晴れていた。
亡くなった友人は飛行機の航路の向こう側に行ったのだろうか。数年前に死産した僕の娘はそのさらに向こうにいるのか。
そんなことを空を見上げる度に思えるとしたなら、飛行機がその頻度を上げてくれたとも言える。人工の飛ぶ鉄の虫は、ジェットの速さで死の世界とボクの生を繋ぐ使者なんだな、きっと。
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