【小説】池袋

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「お久しぶりですね」
 池袋駅の改札口を出たところで聞き覚えのない声に呼び止められた。振り返ってみたがやはり知らない人物だった。どちら様ですか、と尋ねたところ「お分かりになりませんか。残念です。まあ無理もない事ですよ」と返された。
「私はあなたの事を知っています。あなたも本当は私の事を知っているはずなのですが、よかったら少しお話出来ませんでしょうか」
 誰だかわからない人物と長話するほど暇では無い、と言いたいところだったが仕事終わりで気まぐれ電車に乗ってきただけの僕には時間があった。あっさり好奇心が猜疑心を上回り僕はその提案を快諾した。彼は今は多くは語らないという姿勢だった。年齢の頃は僕よりだいぶ若く見える。高校生といえばそうだし、三十歳といえばそう見える。ただ話口調は見た目よりはだいぶ年寄りに聞こえた。
「ところで、どこに行きましょうかね」と僕は聞いた。
「このご時世ですからね。この時間開いているお店は無さそうです。どうでしょうか少し歩きませんか。確か散歩がお好きだったかと思いますが」と言うと彼はスタスタと地下通路へ向かって歩き始めた。人もまばらな地下街を抜けエスカレーターで地上に上がると西口。僕はこの世界が開ける感じが好きだ。
 さてこの不可解な散策は目的も明快にならないままにゆっくりと始まった。なんとなく足が向かう方、信号が青になった方向と選んでいないようで選んでいるような歩き方で、ゆっくりと止まる事なく進んだ。ロマンス通りも静かだった。シネマロサも本来ならレイトショーの時間だ。僕は高校生の時よくレイトショーを観に来た。二つのスクリーンがある老舗の映画館は今でこそ「ロサ」で統一されているが、当時地上二階がロサ、地下がセレサという名前だった。
「ここでよく映画を観ました。ダニーボイル監督のトレインスポッティングはここで観たレイトショーで一番印象に残っています」と話しかけてみたが彼は「知っています」と素っ気なく答えて、劇場通りの横断歩道を渡り始めていた。僕は慌てて彼の後ろを追いかけた。
 彼は僕が歩いた道をよく知っていた。やはり僕は彼の事を知っているのだろう。確かになんとなく懐かしい。今歩いているトキワ通りには昔の仕事先があった。若い頃電話営業の仕事をしていたのだが成績が思うようにいかず上司から嫌味を言われる日々だった。僕は孤独な気持ちが膨らんだ時は駅には戻らずそのまま徒歩で帰った。トキワ通りはいわゆるホテル街なのだが、急に道幅が狭くなるところから住宅街になる。池袋とそうでない場所を分ける門のように。
 細くなった道は次第に下り坂となる。コンクリートに覆われて気付かないが谷の斜面を下りていくようなものである。谷底には昭和三十年代に暗渠となった谷端川がある。彼は振り返る事なく暗がりの坂道を下りて行った。そういえばあの頃も池袋のビル群を背にして谷底へ転がり下りていっていた。あの日の僕と今の僕を繋ぐものは一体何だろう。それなりに充実してはいるが、果たしてそれはあの時塞いでいた僕の心が本当に求めてきた人生なのだろうか。
 「もう少しでゴールだね」と僕から話かけた。返事は無かった。
 住宅地から商店街に繋がって谷端川親水公園にたどり着いた。
 公園に着いたところで電話が鳴った。
「今どこにいるの」妻からだった。
「池袋」
連絡を入れないと心配するでしょ、と叱られてお土産を約束させられた。人気のない池袋の端っこは首都高と山手通りを行き交う車の音以外はただ静かだった。僕は心地の良い体の疲れと柔らかく動く思考を感じながら、一人自宅のある西の方へ歩き始めた。

【掲載データ】

ワンコインランチ東京 池袋vol.26

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