世田谷の有名人体罰事件を蒸し返す。

日本人が忘れっぽいのか、それが世界的な潮流なのかは判断する材料は持っていないが、とにかくSNSを中心としたリアルタイムウェブの時代に置いてニュースは「ネタ」としてあっという間に消費され、すぐに次の話題に移行していってしまうというのは事実のようである。
昨年とあるニュース話題をSNSで展開したところ、強い拒否反応を示されSNS上の友人関係を切られる経験をした。某有名人による指導体罰という名目の暴力(と僕は認識している)について、体罰を無くす為にはという抽象的な観点からその有名人を批判する文章を書いた。
それだけインパクトのあった事柄だったにも関わらず、この問題を蒸し返す人は限りなくゼロに近い。
それまでもずっと体罰による自殺が起こるなど社会問題になるたびに一旦は議論が盛り上がるがすぐ忘れて体罰はやはり繰り返されている。繰り返すたびに同じ議論をちょっとだけやるのだが、また収束して忘れていく。一向に答えに向かわず、同じ場所で足踏みしているのが現状ではないだろうか。
この問題に際しては月に一回は考えているし、体罰についてネットで拾える情報は見聞きするようにしている。
そんな勉強をしつつの現在の主張を記録しておく。「記録」と書いたのは、こういったクラウドに意見を残すという事は自己主張であると同時に今後自分の考えの変遷を知る上での備忘録でもあるからだ。
では記録していく。
まずは「体罰は絶対にダメである」という事を共通認識として持たなければいけない。その一点を揺るがすと暴力自体が名札を変えれば教育になってしまう事を認めてしまう事になるからだ。ただし、哲学者の東浩紀がネットで指摘しているように、教育というのは一定の暴力性を秘めている。どういう事かというと、子供の思考的方向性を言葉で矯正していくという事が教育の一つの要素であり、ある種の精神的な暴力性はあるという事だ。
なので東氏が言うように「物理的な暴力」に絞った議論に限定しないと話はあらぬ方向に向かい雲散霧消してしまう。
その上で論を進めると、物理的暴力が行われてしまった場合、それを「傷害罪」だと言わなければいけない。なので件の有名人はそれが公にばれてしまった以上世間的には「傷害」として取り扱う必要がある。
「ばれてしまったら」と書いたのは、例えば有名人と殴られた中学生に「暴力オッケー」という契約関係があるのなら、それは隠れたところでやっている分には勝手にしろという事は言えなくはない、という事だ。しかしそれが公にニュースとなったからには、法治国家としての私たちの社会として法的な判断を下す必要があるのだ。
法的な判断をするという主張をした際に大きな拒否反応をもらったのだが、日本は法的な判断という事に対してナイーブすぎる気がする。そこは実はとても事務的な事で、ダメなものはダメという事を表現する手段でしかない。そこには当事者間の許し合いとは関係なく判断が存在しない事には法治国家とは言えなくなるという事だ。だからこの件についてうやむやにするという事は、大袈裟ではなく法治国家を放棄するという事とも言えてしまう。
「子供がいないとわからない」という事も言われたが、そんな事はこの件とは一切関係ない。暴力を振るった事実をどう評価するかだから。それにそれを言い出したら子供がいない人は教育問題に対して言葉を発せなくなる。
そしてその評価は体罰の件についてであり、有名人の表現活動継続とは余り関係がない。
そういう俯瞰的な法治感覚がまったく有耶無耶になってしまった事がとにかく悔やまれる。
僕が最も残念に思ったのは、ジャーナリスト時代に体罰問題を多く取り扱ったはずの保坂展人世田谷区長が、この件を「指導だった」と結論づけたところだ。それは変節と言われても仕方がない。むしろ元ジャーナリストとして体罰問題に一定の筋道をつけるチャンスだったはずなのに、それを捨てた。僕はそこに大きな怒りを感じている。

こんな調子だと、おそらくまた同じような「指導という名の暴力」問題は出てくるだろう。そしてその時にまた同じような軋轢を生み、また有耶無耶に日常を回復するだろう。

なので軋轢を生むかもしれない事でも定期的に蒸し返す必要性をこのように表現してみた。

皆さんは改めてあの問題をどのように考えますか?

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