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「特許と人命のどちらを優先させるべきか」という問いを巡って

医薬品特許を巡る「南北問題」

医薬品特許と医薬品アクセスのどちらを優先させるべきか?

このように問われて「前者を優先させるべきである」と答える方は多くはないでしょう。

医薬品アクセスを巡っては、先進国と新興国・途上国の間に「南北問題」とも呼ぶべき格差があります。従前から、先進国の製薬企業が医薬品特許を独占し、新興国・途上国の貧しい人々に必要な医薬品が届いていないという指摘がなされてきました。他方、先進国の製薬企業が新薬を市場に供給するためには、莫大な研究開発費を投下する必要があり、そのような研究開発費をまかなうためには、医薬品特許の十分な保護を必要としています。先進国と新興国・途上国との間の対立は、途上国を支援する先進国のNGOも加わり、「イデオロギー戦争」のような様相を呈しているとも言われています。

強制実施権とは

一定の条件のもとでは特許権者の許諾を得ることなく特許発明を実施することが認められる場合があります。これを「強制実施権」と呼びます。強制実施権を付与する条件は、各国の特許法制によって異なります。日本においても、裁定制度として、例えば、公共の利益のために通常実施権の設定の裁定をすることを認めています(特許法93条)。

先進国は、医薬品開発のインセンティブを維持するため、特許の保護を重視する立場です。そのため、強制実施権の制度は、必ずしも医薬品の価格を引き下げ、それにより医薬品アクセスを向上させることを目的として利用することは想定されていません。

これに対し、新興国・途上国は、医薬品の価格の引き下げなどを目的として、強制実施権を活用している。実際に強制実施権を設定する場合もありますが、強制実施権の設定を背景として価格の引き下げ交渉を行い、強制実施権の実行に至らない場合があります。

新興国・途上国による強制実施権の発動については合理性及び透明性に疑問が投げかけられる例もあります。そのため、先進国は、新興国・途上国による強制実施権の発動については合理性及び透明性を確保して運用すべきと主張してきました。強制実施権の不合理・不透明な発動に対する牽制機能を果たすものとして先進国が期待するのが、「知的財産権の貿易関連の側面に関する協定」、いわゆるTRIPs協定(1995年発効)です。

TRIPs協定による「南北問題」の調整

TRIPs協定31条における強制実施権の定め

TRIPs協定は、全ての加盟国が一律に遵守することが要求される知的財産保護の最低限の基準を定めています(同1条)。それゆえ、全ての加盟国は、強制実施権を付与するにあたり、TRIPs協定31条が定める手続を遵守しなければなりません。最も、TRIPs協定31条は、強制実施権が付与される事由について制限を加えるものではなく、それゆえ、加盟国は、強制実施権が付与される事由を決定する裁量を有しています。

例えば、TRIPs協定31条(f)は、強制実施権に基づく特許発明の実施が当該強制実施権の付与を決定する加盟国の国内市場への供給を主たる目的としなければならない旨を定めています。つまり、強制実施権を付与した国は、これにより生産された製品の50%以上を国内市場向けに供給しなければならず、他の国に輸出することはできないことになります。

ドーハ宣言とその後のTRIPs協定

医薬品の生産能力がない途上国は、その国内に強制実施権を付与すべき生産主体が存在しないため、他国で強制実施権により生産された医薬品を輸入することになると考えられます。しかし、その場合、強制実施権が主として国内市場への供給のために付与されることを要求するTRIPs協定31条(f)が障害となります。2001年にWTO閣僚会議が採択したドーハ宣言は、この点を踏まえて、「医薬品の生産能力がない途上国が、TRIPs協定の下で強制実施権を効果的に使用する上で困難に直面する可能性がある」と指摘しました。

この指摘を受けて、2005年、WTO一般理事会は、TRIPs協定改正議定書を採択しました(2017年発効)。これにより、TRIPs 31条の2及び附属書が新設され、一定の条件を満たす場合、強制実施権に基づいて生産した医薬品をその生産能力がない加盟国に輸出するにあたって同協定31条(f)の義務を適用しないこととされました。しかし、この制度を利用する関係加盟国は、附属書に定める詳細な履行義務を遵守しなければならず、煩雑な手続が求められるため、この制度によりTRIPs協定31条(f)の義務が免除された事例は見当たりません。

COVID-19を巡る近時のTRIPs協定の動向

「ワクチン・ナショナリズム」

COVID-19を巡っては、治療薬や検査キットに対するアクセスも問題になったものの、主にワクチンに対するアクセスが関心を集めました。先進国においても新型コロナウイルス感染症が広がる中、新型コロナウイルス感染症のワクチンに対するアクセスについては、主として(ワクチンの価格というよりも)ワクチンの供給量が不足することが問題とされた点が特徴的です。

このような状況下において、先進国の政府は、ワクチンの開発段階から製薬会社にアプローチし、ワクチンの確保を試みることになりました。国際機関による枠組み「COVAX」が先進国と新興国・途上国の公平性を確保したものとして注目を集めましたが、その枠外で先進国によるワクチン調達競争が繰り広げられる中、COVAXを通じたワクチン供給量は計画通りには伸びませんでした。このような状況下において、ワクチンに対するアクセスが期待できない新興国・途上国は、「ワクチンの特許の保護を制限すれば、新興国・途上国に生産拠点を設けてワクチンの供給量を増やすことができるのではないか」と考えてもおかしくありません。

新興国・途上国によるTRIPs協定の適用免除の要請

インドと南アフリカは、2020年10月2日、TRIPs理事会に対し、COVID-19の対応の範囲でTRIPs協定に基づく知的財産権の保護を免除することを求める提案を提出しました(参考リンク)。TRIPs協定がドーハ宣言・TRIPs協定改正議定書により新興国・途上国の利益に配慮するように変化を遂げてきたことは既に述べたとおりですが、更に一歩進んで、TRIPs協定の適用自体を免除することを提案しているわけです。

この提案は、TRIPs協定31条の2及び付属書による医薬品の輸出入のためのプロセスが、煩雑で時間がかかるため、医薬品の生産能力がない加盟国によるCOVID-19の対応の障害になると指摘しています。加盟国が自由にワクチンに関する特許の強制実施権を付与し、ワクチンの生産能力がない途上国にワクチンを輸出することを認めようとするものと理解することができます。

その後、62の加盟国は、2021年5月25日、インドと南アフリカによる当初の提案を更に具体化した提案を行いました(参考リンク)。インドと南アフリカの提案は、62もの新興国・途上国の支持を得たことになります。

第12回WTO閣僚会議による妥協

米国バイデン政権が2021年5月5日にインドと南アフリカの提案に対して支持を表明したこともあり(参考リンク)、第12回WTO閣僚会議(MC12)が2022年6月17日に採択した閣僚決定においては、本決定の日から5年間にわたり、加盟国が、適格国(ワクチンの生産能力を有しない途上国)への輸出を目的として、COVID-19のワクチンに関する特許に強制実施権を設定する場合、同協定31条(f)の適用が免除されることになりました(参考リンク)。ただし、適格国(ワクチン輸入国)は、TRIPs理事会に対して、本決定に基づく措置を通知するとともに、自国に輸入されたワクチンの再輸出を防止するための合理的努力を払う必要があります。これは、本決定から5年間の期間、かつ、COVID-19のワクチンに限り、TRIPs協定31条の2及び附属書に定める煩雑な手続を若干緩和し、途上国にとって使いやすいものにしたものと考えられます。

本決定は、TRIPs協定に基づく特許の保護を後退させた点について、製薬業界から批判されています。これに対し、途上国を支えるNGOは、TRIPs協定に基づく特許の保護義務の免除を求めていため、TRIPs協定の定めを緩和するに留まった点について、本決定を批判しています。

今後、2022年12月17日までに、加盟国がCOVID-19の診断薬と治療薬の知的財産権についても決定を行うことが予定されています。

COVID-19が示した「南北問題」の根深さ

TRIPs協定は、ドーハ宣言やTRIPs協定改正議定書を経て新興国・途上国の利益に配慮するように変化を遂げてきました。第12回WTO閣僚会議による閣僚決定は、これを更に一歩進めるものと言えます。実質的には従来の特許の保護を大幅に後退させたものではないと考えられますが、「医薬品特許と医薬品アクセスのどちらを優先させるべきか?」という問いを巡る「イデオロギー戦争」が根深いことを改めて示しました。

このテーマについては、こちらの書籍に掲載された論文において詳しく論じています。

なお、医薬品アクセス一般については、「医薬アクセス グローバルヘルスのためのフレームワーク」がケーススタディとそれに基づく有効なフレームワークを提示しています。

また、日本政府によるワクチン確保の取組みについては、「新型コロナ対応民間臨時調査会 調査・検証報告書」で詳しく論じられています。

注記

  • 私の投稿内容は、個人としての見解に基づくものであり、いかなる組織の見解を構成するものでもありません。同様に、法的アドバイスを構成するものでもありません。

  • Amazonのアソシエイトとして、適格販売による収入を得ています。


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