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今につながる中高柔道部のこと

 かれこれ30年弱前、足立学園という北千住の中高一貫校に入学しました。同級生が進学する地元中学に行きたい気持ちとは裏腹に、不良文化がうっすら残る地元に進学させたくないという親の意向で。当人の意思不在の受験、流れで入った柔道部、そこでK太郎さんと出会い、20年後にUNITED GYM TOKYOに入るという長めのストーリーです。

気づいたら名門柔道部入り

 足立学園柔道部(高校)はいわゆる強豪校で、都大会では全国優勝常連の国士館・世田谷学園に次いで3番手、個人ではインターハイに出る先輩も多数いました。柔術界でも有名なのは「コムロック」の名づけ親である小室宏二先輩や、小室先輩と同じ代でRJJ代表の岡本裕士先輩などでしょうか。

 そんな先輩方に対し、私はゴムボールで野球をやって終わる日もある町道場に通っていた程度。入学からしばらくはどんな部活なのかも理解していないまま日々過ごしていた気がします。

足立学園柔道場

ガチについていけず中3で退部

 高校生の強さを認識したのはインターハイ予選の都大会だったような。国士館や世田谷とぶつかり合う姿を見て、「ここは自分がやっていける場所じゃない…」と恐れおののいた記憶があります。毎日練習しながらもその気持ちは消えず、中3の春に突如退部を決断。せめて夏の大会までやればよかったのに、なぜ4月に辞めたのか。

中学2年時、台東リバーサイドスポーツセンターでの大会

からの高校で再入部

 受験することなく高校に進学すると、他校から出稽古に来ていた同級生たちも入学してきます。彼らが練習している姿を見て、やることなく刺激に飢えていた私は分かりやすく影響を受け、顧問の徳原先生に再入部の意を伝えました。去るときは止めてくれたけど、戻ってきたときは何も言わずに受け入れてくれました。

徳原先生(2009年撮影)

日々の練習

 平日は朝トレーニング1時間、授業後の稽古4時間がベース。週末も同等かそれ以上の練習がありました。通常練習以外にも大学への出稽古、奈良県天理市で行われる練習試合への遠征などイベント盛りだくさん。長期休みは大体合宿でした。

柔道部LINEに流れてきた練習表

朝トレーニング

 朝は7時スタート。荒川河川敷で3km程度の走り込みからはじまります。ランニング後は坂道ダッシュや手押し車などをやり、帰りはペアでおんぶ、抱っこしながら学校までの約700mを移動。学校着後は体育館のロープを手だけで昇り降り5本程度やって終了。ロープは好きで楽しく登っており、今の背筋は当時の名残りです。

夕方稽古

 16~20時が通常稽古。打ち込み、投げ込みなどをやった後、立ち技の乱取りを8分×10本、休憩をはさんで寝技の乱取りを6分×10本。寝技は輪転といって横2列に並んでひたすらまわるという先の見えないパターンがあったり、立ち技は元立ちという試合前の選手がひたすらまわされるみたいのもありました。

 毎日の〆はすり上げを200回。筋肉番付というテレビ番組で腕立て伏せの回数を競うシーンがあったのだけど、見てて何も感じない程度にすり上げはかなりの回数できた。

2009年時もみんなすり上げていた

大学への出稽古

 車に乗れる上限があるため、大学への出稽古は基本的にレギュラーメンバーが行っていました。OBの先輩が車を出してくれた際はレギュラーじゃないメンバーも一緒に同行し、行先は日体大、筑波大が多かった印象です。筑波大は稽古時間が2時間半くらいで、当時はすごくスタイリッシュに感じられた。

遠征

 練習試合や全国大会などの際は常に車で遠征していました。遠征で記憶にあるのは天理大学で行われる合同の練習試合。かなりの学校が参加しており、基本はレギュラーメンバーが試合に出ていたけど、私もちょいちょい出ていました。1日に何試合もやるのでレギュラーはかなり大変。負けたら怒られるし。

 天理遠征で鮮明に覚えているのは高2の冬。ラジオ好きだった私は福山雅治のオールナイトニッポン(たまラジ)を愛聴していて、「クリスマスをどう過ごすか」というテーマに「柔道部の遠征で、テレビもない部屋で男だけで過ごす」とメールしたところ、採用されて2週にわたって電話出演することに。2週目は遠征先から電話をつないだのだけど、1台のPHSを4人の同期と囲み、福山雅治とゲストの今田耕司と話しました。あれは超楽しかった。まだMDに録音してある。というか当時の回がYoutubeにあった…!17歳、たけひろ!

合宿

 しんどいけど楽しかったのが合宿。早朝、午前、午後の3部練で1日6~8時間くらい練習していたような…。練習はつらいけど道場に泊まってみんなで飯食ったりというのは単純に面白くて、銭湯行ったりゲーセン行ったりしたのは良い思い出。消灯後は持ち込んだCDプレーヤーで音楽を聴くのも密かな楽しみでした。

中央左の布団は合宿中恒例の光景

他校の出稽古、K太郎さんとの出会い

 専修大学附属高等学校は先生同士が親しく、時々練習に来ていました。その中にいたのが当時高校1年だったK太郎さん。上から目線で恐縮ですが専大付属高柔道部はそこまで強くなく、その中で少し強い選手というのが当時のK太郎さんの印象。乱取りを結構やった記憶があるけど、学年上の私が投げていたはずです(記憶は曖昧です)。16歳の中村青年はまだ化け物じゃなかった。

 合宿中は八王子高校、北海道の旭川大学高等学校、あと当時清風中学校にいた石井慧選手も泊まり込みで参加していました。石井選手はどれだけ投げても向かってくる姿が印象的で、高3で講道館杯チャンピオン、北京五輪で優勝した際は本当に驚いた。後で著書を読んだら柔道をちゃんとはじめたのが中1で、当時ははじめて8ヵ月弱。良い時期の出会いでした。銭湯帰りに路上でシャドーボクシングしていた姿を今も覚えています。

負け続けた高校時代、都大会で引退

 高校柔道部時代は同期でも最弱、後輩にも勝てずとにかく負け続けた3年間でした。その集大成になるのが高3のインターハイ予選都大会。60kg級、66kg級は校内予選のレベルが高く、73kg級にあげての出場でした。

 1回戦の相手は専大付属高の中村青年。たびたび上から目線で恐縮ですが、当時のK太郎さんには勝てると思い込んでおり、次戦シードの海老沼聖選手(世田谷学園、現パーク24監督)のことばかり考えていました。学年1つ下ながら実力差は明白で、どこまでできるのかのチャレンジだなぁと。

 勝手な妄想とは裏腹に、試合経験が少なかった私は尋常じゃないくらいの緊張で試合を迎え、最終的にはK太郎さんに抑え込まれて負けたはず。乱取りで負けたことのない相手に負けるというのが当時は強烈で、試合後は数分ほどトイレに引きこもりました。

引退試合ライブラリー(2001年)

講道館にて、試合直前
開始線に立つ
組み合う
組み負ける
がんばる
攻める
中村K太郎からサイドバックを奪う
今でも使う帯取り返しは当時からフル活用

 写真はここまで。撮影してくれたのは同級生(平野)のお父さんで、中学から一緒にやってきた息子の同級生が負ける瞬間を撮れなかったのか、撮ったけど渡さなかったのか。どちらにせよ当時の優しさを今はすごく感じます。とても貴重な写真で、今自分が写真を撮る(記録に残す)原点のひとつになっています。ありがとうございます!



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