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浄土真宗Live(3/21.22)の感想

4月1日です。2年間のPTA会長生活から開放されました。超絶面倒でした!でも、一度経験してみるのも悪くないかも。一度でいいけど。うん、楽しかったですよ。

さて、浄土真宗Liveです。初日はモウ大変でした。生配信のあれこれの準備が整ったのが5分前で、そもそも生配信できてるのか?コメントは?スライド!って具合で久しぶりにメモリーオーバーでした。だからライブで講師の法話を味わう事は全くできませんでた。少しは落ち着いたとはいえ、2日目もほぼ同様でした。

家で落ち着いて観てみたらちゃんと配信されてましたね。もちろん反省点は様々ありますけど、初回でこれはまぁなんとか合格点(配信の映像とか音とかテロップが、ですよ)。ほとんどヒマナイヌ川井氏のおかげですけど。

感想です。22日の中根さんからの瓜生さんが面白かった。

https://youtu.be/aTcYbzlTf7U

瓜生さんの「瓜生少年の死がこわい」話はこれが2回目でした。1回目は「宗教とは何か?」という法話の冒頭に話されました。「宗教」や「信心」が宗教心を殺す。浄土真宗とは「宗教」「信心」からの開放である。しかし、我々(私)は宗教心という「問い」よりも私の「答え」を抱きしめてしまう。

今回の「死がこわい」話でふと思ったのは、曇鸞大師の

  三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

の逸話でした。曇鸞大師は、長寿の法を求めて仙術を学び、奥義の書である仙経を持ち帰る途中で菩提流支に会い、菩提流支に「しばらくは長生きできるかもしれないが、それは迷いの生を積み重ねるだけだ」と一喝されます。そこで曇鸞大師は仙経を焼き捨て浄土の道に帰依したのです。

私はこの逸話を聞いたとき、健康不安の51歳の曇鸞大師が1年かけて仙術を学ぶよりも、その1年で目の前の課題『大集経』に取り組んだ方が良かったのではないか?と思いました。『大集経』のために長寿になるのも合理的な方法かもしれませんが、明日はわからないですから。なりふりかまわず『大集経』に向き合うべきだったのではと。

瓜生さんの「死がこわい」話を聞き、曇鸞大師も「死がこわかった」のかもと思いました。死がこわかったから、当面の課題よりも死の先延ばしを優先した。曇鸞大師の迷いは「死がこわい」「死をおそれる理由もわからない」という生死の迷いだったのではないでしょうか?生死の迷いを克服するために大乗仏教を努力して学び、そして努力して仙術を修めた。

菩提流支と出遇い、自身の迷いは生死の迷いであり、その生死の迷いと本当には向き合ってこなかった自身にきずいた。自身の学びの「答え」を抱きしめていただけで、迷いの「問い」を棚上げしていた。生死をこえた教えに出遇った曇鸞大師が仙経を焼き捨てたのは当然でした。

我々(私)は普段「死がこわさ」を棚上げして生きています。しかし、いまは「死のこわさ」が目線に入ってきているのかもしれません。そんなときに我々は言葉を持っているのか、いないのか?私にはわかりません。だから「法話」が聞きたいのです。



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