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客人の事

6月27日
 朝は少し涼しく、リンと散歩に行ってもそれほど汗をかかなかったが、日が高くなるにつれ、だんだんと蒸し暑くなってきた。
 朝の八時過ぎ、ヨネヤが嫁さんのチカコさんと一緒に遊びに行ってもいいかと電話をかけてきたので、構わないと答えるとそれから一時間もしないうちにやって来た。
 チカコさんとは高校の時の同級だった。ヨネヤとは大学で知り合ったのだそうだ。僕は会社勤めをするようになってからヨネヤと知り合ったのだが、世間は狭いと思った。

 チカコさんが、手みやげに素麺を持ってきてくれ、もしご迷惑でなかったらお昼に作らせてもらおうと思うのだけど、と言う。いつも自炊しているので、人の作ったものは大歓迎だと答えると、ヨネヤに主婦みたいな事を言うなと笑われた。
 リンが僕の足下からヨネヤ夫妻を見上げて、嬉しそうな顔で尾を左右に揺らしている。ヨネヤとは会ったことがあるので分かるが、初めて会ったチカコさんにもすぐ懐いている。たぶん、お客さんが好きなのだろう。

 居間へ入ると、サカエダさんが窓際に座っている。ヨネヤとチカコさんが、お邪魔しますと言うと、サカエダさんはにこにこと笑いながらお辞儀を返していた。
 サカエダさんが見える人と見えない人がいるのは、少し不思議だと思う。リンはしばらくサカエダさんにじゃれついていた。

 昼近くに、ヨネヤがビールを買いに行きたいと言うので、一緒に酒屋へ行くことにする。
 リンはよほどチカコさんが気に入ったのか、随分遊んでもらっていたのだが、疲れたのかすっかり眠り込んでしまった。チカコさんはリンたちと留守番をしているというので、二人だけで酒屋へ行く。
 戻ってみると、玄関先にチカコさんが立っている。どうしたのかと尋ねると、電話が掛かってきたのだという。
 人の家の電話に出るのはどうかと思ったものの、二度も三度も掛かってくるので何か急ぎの用ではいけないと思い、四度目に電話に出てみたら、年配の男の人だった。近くまで来たので、ちょっと挨拶に寄ろうと思ったのだが、どういうわけかなかなか家にたどり着けない。というようなことを言う。
 もしかして間違いではないかと思い、どちらにお掛けですかと尋ねれば、確かに僕の家に掛けてきている。
 今はどの辺りにいるのかと尋ねれば、金木犀を垣根にした家の前にいるのだという。残念ながらチカコさんには分からないので、せめて名前を聞いておこうと思った時、電話は切れてしまったのだそうだ。

 この近所で、金木犀を垣根にしている家は、僕の記憶ではこの家の他にない。庭の外れに建っている、小さな土蔵のある辺りがその金木犀のある一角だった。
 垣根というより、いつの間にか垣根のようになってしまったというだけらしいのだが、まず間違いない。それで庭に回ってみるが、やはりその辺りには誰もいなかった。
 一体誰なのか分からないが、電話が掛かってきたのは僕たちが出掛けてそれほど経たないうちだったというから、諦めて帰ってしまったのだろう。

 昼飯に、チカコさんの作ってくれた野菜や錦糸卵、天ぷらを添えた素麺を食べ、ビールを飲みながら話し込んだ。チカコさんが、サカエダさんにも素麺を勧めようとしたら、どうも姿が見当たらなかった。
 夕方、三人とリンで散歩に行き、その足で二人は帰って行った。家に戻るといつもの場所にサカエダさんが戻っていて、風鈴が微かに鳴っている。窓を開けると、気持ちの良い風が入ってきた。

 二階へ上がって、なんとなく土蔵の方の窓を開けてみると、金木犀の向こうの道路を人が歩いているのが見えた。
 年配の男の人で、ふと足を止めてこちらを見上げる。僕と目が合うと一瞬とても驚いたような顔をして、それから会釈をする。知らない人物だったが、僕も会釈を返した。
 昼間の電話の事を思い出して、慌てて外へ出てみる。初老の男の人が暑さにくたびれたのか、やれやれという感じに笑いながら立っていた。

 なんでも、僕の曾祖父の弟子だったという人で、僕が幼い頃に何度か会ったことがあるのだという。修一君、と僕の名前まで覚えていた。
 久しぶりにこちらに来たので懐かしいこの辺りを歩いて回っていたら、二階で外を眺めている僕を見て、曾祖父の若い頃に似ていたので一瞬彼が居るのかと思い、驚いたのだという。
上がってもらって、少し話をした。
 曾祖父のお弟子さんならと、曾祖父がよく庭を眺めていた座敷に通した。改装はしたものの、当時の面影はあるのだろう。しきりと懐かしがってくれた。

 その人はイズミヤと名乗った。
 イズミヤさんは曾祖父の絵の話になると、曾祖父の作風や絵に向き合う姿勢の素晴らしかったことなどを話してくれた。僕が、実は曾祖父の絵はあまり見たことがないのだ言うと、それは是非見た方がいいと言う。
 ちょど、今日手に入れたという絵を見せてもらった。
 幅が二十センチ、高さが七十センチほどの掛け軸で、月夜の絵だった。緑の稲田の中を、赤い洋服の少女が散歩しているというものだ。少し幻想的で、不思議と暖かい感じの絵だった。
イズミヤさんは随分と曾祖父の絵を買い集めているのだそうだ。
 今日も、これを譲ってもらうためにこちらまで出てきたのだという。
 今度、是非遊びに行かせてもらいますと約束をし、家の所在などを教えてもらって送り出した。
 別れ際、そういえば昼間、家に電話をくれたかと尋ねると、掛けていないという答え。一体誰からの電話だったのだろう。

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