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大阪の城⑤飯盛城

【飯盛城址】

おはようございます、ほどほど夫妻のたけちです。
連日の猛暑及びいきなりのゲリラ豪雨、正直げんなりです🥵

さて、今日は大阪の続100名城の一つ、飯盛城を紹介します。

【楠木正行像、実は飯盛城と関係ない】
【二の曲輪の堀切】

1 全 般

飯盛城は、大阪府大東市北条から四條畷市南野にかけてある飯盛山にあった近畿地方最大級の中世の山城です。
河内平野部を眼下に一望する要害で東高野街道を抑えるのに絶好の位置にあります。昔の人は地形の活用がすごく巧みですよね

【腰曲輪の石垣】

飯盛城の築城は諸説ありますが、16世紀前期河内を支配した畠山氏の部下木沢長政が築城したものだと、たけちは考えています。
その後、畠山氏の在城として北河内の政治的中心となりますが、細川晴元と山科本願寺が指導する一揆軍に攻められ落城の憂き目を見ます😱

【本曲輪の石垣】

2 三好長慶

さて、細川氏との抗争が一段落し、飯盛城は城主に木沢長政を迎え、一時平安を取り戻したかのように見えましたが、次の争いが勃発!
河内の人々が大河ドラマ推しする三好長慶が河内に進出してきます😆

【千畳敷郭】

1559年畠山氏の内乱に乗じて河内に進出した長慶は寝屋川の戦いで畠山氏を堺へ敗走させ、飯盛城に入城します。

【南丸】

1561年今度は畠山氏が根来衆と組み、長慶に逆襲をかけて来ます。
飯盛城の支城三箇城を攻め落とし、長慶の飯盛城を包囲してしまいます。
長慶、危うし!

【日本の副王 三好長慶】

しかし、長慶は自分の味方を前もって城から出しておき、畠山氏の総攻撃の背後から奇襲、城からは挟撃し、畠山氏を撃退😡
世に言う教興寺の戦いと言います。
その後、長慶は居城を芥川山城から飯盛城に移し、河内の支配権を確立😃
機内での勢力を拡張しようとした矢先に一人息子、頼りにする弟を相次いで亡くし、1564年長慶自身も43歳(若い!)で病で没します。まだまだ、今からという矢先に残念😮

3 その後の飯盛城とスタンプ等

その後、みんな大好き信長が畿内に進出し、三好氏は衰退の一途を辿ることになります。
そして、飯盛城は1567年に信長の遊佐氏の反乱制圧を機に廃城となります。

【キラキラ御城印】

スタンプと御城印はいくつか頂ける場所があるのですか、たけちは大東市歴史民俗資料館でいただきました。
かなり三好長慶推しの飯山城でしたが、確かに飯山城に石垣は信長の小牧山城の石垣よりも古いと言われていますし、戦いで組織的な鉄砲を使用したのも長慶が先であったとも言われています。(「麒麟がくる」でも鉄砲を巡り部下の松永久秀が明智光秀と堺で遭遇するシーンがありましたね

三好長慶については前の芥川山城の記述も参考にしていただければ幸甚です。

信長と長慶は直接戦うことはありませんでしたが、思考は似ていたのかもしれませんね。
(大河ドラマ的にはたけちは「タカトラ!」派です。)

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