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きくこと

個人的に残しておきたい体験を過ごさせてもらい、普段より「どう読まれるか」を意識せずに書いています。

これもまた信じられない、言葉にならないプロセスを通り沖縄にいる。「無職だったらここに行くといいかもしれないですよ〜〜」と、シンメイコーヒーのさきちゃんにおしえてもらい、名護のcoconovaという場所にいった。すごい場所でした。ほんとうにバイブス高いひとが集まっておられて、その熱に当てられたんだろうな、「ガツガツと自分のことを話す」というモードになってしまった。


みなさんにほんとうに優しく受けとめてもらい、それはそれでよかったのかもしれない、けれど帰りの車を運転は「ああ、あの言葉はきくをしなければいけなかった。サインだったよな」と感じるシーンをいくつも思い浮かべながらになった。

たとえば「この場所、どう思いましたか?」と聞いてもらったとき。ぼくの気持ちを話すのではなく「どんな想いがある場所なんですか?」と聞ければよかったな、とか。なんでできなかったんだろうな。自己効力感、低くなる。



そんな時間を過ごした数日後、またとても、ほんとうに信じられない、言葉にならない出会いがあった。ある道の駅。軒先で話し、腰をあげるみっちゃん。
「入っておいで。話しましょかね」。きっと普段からみんなにこんなふうにしているんですね。出してもらったプラスチックのスリッパの感触が印象深い。

お店のなか、出してもらったイスに腰掛ける。ぼくは車に積んでいるコーヒーセットを取り出し、ガスコンロでお湯をわかす。ドリッパーを忘れてしまった。みっちゃんが店舗用の大きなドリッパーを出してくれる。これコップにのるかなあ。

話し出すみっちゃん。みっちゃんのライフストーリーが訥々と語られる。なんて意味深い人生なの。みっちゃんが言う。「あら〜〜なんでわたしがこんな話してるんだろうね。ほら、コーヒー!」ほんとだ、コーヒー、お湯を沸かしたまま淹れれていなかった。お湯を注ぐ。みっちゃん、聞けて、こんなにうれしい。

・・・まてよ、これは、名護で思った「きくことから、そっちのほうがおもしろいはずなのに」の反省が活きているんじゃないでしょうか・・?


そう、聞くことのほうがおもしろい。もうそれは、絶対に、と言ってもいいかもしれないと思う。ぼくにはです。

自分の話をするよりも、目のまえのあなたの人生を、あなたの語りという案内で。きくとは、「語りという案内でそのひとのあとを付いて歩くように」だと思うようになった。もうほんとうに、ぼくにはきくほうがおもしろいんです。

帰りの車、名護の帰りとは違う、ああ、たのしかったなあ、うれしいなあという確かな感触で流れる景色を見ていた。

そしてこの時間は、みっちゃんはもちろんですが、ぼくは名護で、ひかるさんに、ぐっしさんにエンパワメントを受けていたんだな。だからこその時間だった。だとしたら、もう、ものすごいものをすでにみなさんから受けとってしまっているなと思いながら。ありがとうございます。


すごい出会いが毎日起きている。ぜんぶ、数年後にも「ああなんて意味のある出会いだったんだろう」と、ぼくにも、みなさんにも思ってもらう未来にするぞと決意を強くする毎日を過ごしています。身体も手も動いてるよ☺✌


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