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やさしさに理由がいる、それがいちばん残酷なんじゃないかな


自分のなかの残酷さをまざまざと見せつけられ、ショックを受けた。

できるだけ、親切にいたいと思っている。それは「やってあげてる」などではなくて、もう、絶対に返ってくるし、マインドフルに過ごすために「共感する」は、たぶん、欠かせなくて、欠かせないものの発露のためにその機会をいただいている、という感覚のほうが近い。


ホームセンターに行った。そのホームセンターにはDIYコーナーがあり、買った木材などを自由に切ったり、加工ができる。自宅の棚と机は自分でつくっている。棚を増やしたくて、木を買い、カットしていた。
ひとりの女性がフラフラーっとコーナーにはいってきた。ぼくの手元を覗き込み、またどこかへフラフラーっと歩いて行った。

気持ち悪い、と思った。


木を切り終わり、また少し離れた場所にある袋詰めのコーナーで数本の切った木をたばねて持ち手をつけようと向かう。先の女性が、歌いながらフロアを歩いているところとすれ違う。「ああ、障がいをお持ちなんだ」と認識すると同時に、さっき、DIYコーナーで手元を覗き込まれたシーンの理由がわかった。


………なんだこれは?彼女に「障がいがあるから」ぼくは、合点がいかない距離感を納得できた。いま。


自分のなかにある残酷性にまざまざと気づいた。ぼくが認識している「常識」から外れた行為をするひとのことを「気持ち悪い」と思い、「障がいがある」と認識すると、納得する。なんだ、これ。


歌いながらフロアを歩く彼女にはたらいていたのは、もしかしたら共感かもしれない。シンパシーではなく、エンパシー。けれど、その背景を想像できなかった自分は「気持ち悪い」と、思っていた。

そうか、ぼくは、「共感をもつには理由がいる」んだーー。


すごくすごく、悲しくなった。優しくするのに理由がいるの?そんなバカな話ったらないよ。

けれど、優しくすることに理由がいるシーン、多いと感じるのです。働いていたら、特にそうだと思う。優しくすることに理由がいる。このひとは自分に利益をもたらしてくれるという予感があるので、優しくする。そんなひとばかりじゃないし、比較的、そんなひとが少ない場所にいることができたいままでだと思う。けれど、「このひとと関わったら厄介になると聞く、距離取っとこか」とか。たくさんあると思う。たくさんやっている。もう無意識に、やっている。


優しさをこの基準に置くとそりゃ生きづらいよなあということはわかっている。けれど、共感を、できるだけ、保っていたい。みんなそれぞれ自分の人生で引き受けたいことを、それは意識的か無意識的かは別にして、引き受けていると思うのです。みんな引き受けている。なんの戦いを引き受けるか、ぼくは、共感を、できるだけ保ちたい、その戦いを引き受けたい。


そもそもいいじゃんね、作業してるひとの手元を覗き込んでも。歌いながらフロアを歩くのはご機嫌やな〜〜って受けとめられるんだから、手元覗くのも、いいじゃない。広くいこう。

「多様性を守る」というのは、こういう煩わしさを排除しないということともうそのままイコールだと思うのです。言葉の陰にある現実を見定めること。


こんなに残酷さを、自分のなかに見るの、ヤダな。もういらないや。やさしくいこうぜ。みんな、元気?優しくされてる?あったかくなってきてうれしいね〜〜🌸




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