太平洋戦争はこうしてはじまった㉓

大混乱を招いた昭和金融恐慌と昭和恐慌
 
 大陸で各軍閥が覇権を競っていたころ、日本国内では恐慌対策が急務となっていた。当時は関東大震災の被害を救済するために、日銀が各企業に震災手形を発行していた。手形は1927年の段階で2億8000万円分が残っていたが、すでに災害から4年が経過。そのため国会では、手形引受の延長の是非についての議論が続いていた。
 3月14日の衆議院予算総会にて、片岡直温大蔵大臣が台湾銀行の震災手形の総額公表を野党から迫られた。片岡はこれを拒否したが、発言の最中に「渡辺銀行が破綻した」と漏らしてしまった。ところが、渡辺銀行はまだ破綻はしていなかったのである。片岡の失言で渡辺銀行は取り付け騒ぎに襲われ、資金不足で本当に破綻寸前となる。この騒動は台湾銀行や東日本の各銀行にも波及し、「昭和金融恐慌」が発生したのだ。
 恐慌改善の行き詰まりで第一次若槻内閣は4月17日に総辞職し、翌日に台湾銀行は休業となった。新たに成立した田中内閣は全国銀行の一斉休業を決定するとともに、日銀などへの金融特別措置を実施。わずか1ヵ月半で恐慌を収束させたのである。
 しかし、再び恐慌の波が押し寄せる。1929年、アメリカにおける株価が大暴落。これによって発生した「世界恐慌」により、欧米各国は深刻な経済不況に見舞われる。この年の7月、田中内閣は総辞職し浜口雄幸内閣が成立している。
 民政党出身の浜口は党の「十大政綱実現」を目指し、その一環として金本位体制への復帰を掲げた。金本位とは、通貨を一定量の金と交換するこの為替取引制度だ。大戦を境に停止していたが、1928年より欧米各国に復帰の動きが見え始めていた。この機に日本も金輸出を解禁し、為替相場の安定化と国際協調の強化を図ろうとした。同時に緊縮財政を行うことで、金融の引き締めも狙ったのである。
 そうした最中に発生したのが世界恐慌だが、内閣は1930年1月に金解禁を強行。が、欧米不況の影響もあり株価は復帰直後に大暴落する。金融機関の破綻は起きなかったものの、失業者は約50万人にまで達し、物価は1929年からの3年間で約3割以下にまで下落した。この「昭和恐慌」で日本は1931年12月に金本位を再放棄するが、デフレ不況は翌々年まで続くことになるのである。

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