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知られざる太平洋戦争のドラマ①

戦場で敵兵を救助した工藤俊作艦長の英断

4カ国連合艦隊との負けられない戦い

1942年2月半ば、日本軍のインドネシア攻略は早くも大詰めを迎えていた。落下傘部隊の奇襲と現地民の離反によって南方の大部分が日本の手に落ち、残すは最南端のジャワ島周辺のみとなっていたのだ。

連合軍は日本軍の進撃を食い止めるため、「ABDA艦隊」と呼ばれたアメリカ、オランダ、イギリス、オーストラリアの4カ国連合艦隊を結成。対する日本海軍も駆逐艦と巡洋艦隊で構成された艦隊を派遣して決戦に挑む。

ここで勝利を納めれば、南方地域は完全に日本の手に落ちる。南方侵攻を成功させるためには、絶対に負けられない戦いだ。

のちに「スラバヤ沖海戦」と呼ばれるこの決戦は、日本の勝利で幕を閉じる。そして、水雷艦隊の勇猛さは、大本営によって日本中に知れわたることになる。だがその影で、だれにも評価されることのない英断を下した将校がいたことは、最後まで語られることはなかった。

その将校こそ、駆逐艦「雷」の艦長、工藤俊作少佐である。

鉄拳制裁を禁止した人道派将校

1901年、工藤は山形県東置賜郡屋代村竹林(現在の高畠町大字竹林)の地主の家に生まれた。工藤は勉学にはげみ、米沢興譲館中学(現在の米沢興譲館中学)を抜群の成績で卒業すると、海軍兵学校へと進学して海軍士官の道を歩みはじめた。

工藤が海軍士官を志した原因は、日露戦争で大勢のロシア兵漂流者を救助した上村将軍の逸話だった。海軍に入った工藤は日々努力を重ねて己を磨き、上村将軍に負けないほどの誠実な人物へと成長していく。

その誠実さがわかるエピソードが、鉄拳制裁の禁止だ。

海軍では部下への体罰が日常茶飯事だったのだが、工藤は自鑑での暴力を全面禁止。方言で命令を伝達した伝令兵を殴ろうとした下士官を、逆に厳しく注意したという逸話があるように、当時の軍隊では珍しい人道派の人間だった。

このほかにも、日米開戦後に派遣されたインドネシアでは甲板の各所に休憩所を設け、休息中の部下たちには現地民との交流をうながし、親日感情を高めたこともあったという。

こうした部下や他者への思いやりが、のちの行動につながっていくのだった。

400人以上のイギリス兵を救助

ジャワ島への攻撃作戦が決まると、「雷」にも参戦命令が来た。ただし司令部からの命令は、敵艦隊への攻撃ではなく巡洋艦の護衛だった。

2月27日、工藤が護衛任務に就いている間に敵艦隊を発見した日本艦隊は、果敢に攻撃を開始した。敵艦隊の陣容は巡洋艦5隻、駆逐艦9隻、日本側は巡洋艦4隻、駆逐艦14隻と数の上ではほぼ互角。だが3月1日まで続いた海戦によって、連合軍は11隻を撃沈され、南方の制海権は完全に日本軍の手に落ちた。

「雷」は補給を終え、1日午後5時頃に戦闘区域へ到着。しかし、このときすでに戦いは終わっていた。「雷」は付近の掃討を命じられたものの敵艦の姿はなく、主隊に合流するため翌日にはジャワ島近海をあとにしようとする。

ちょうどそのときである。午前9時50分、工藤のもとに見張りからの「浮遊物発見」の報告が届いた。それは、先の戦いで撃沈されたイギリス艦隊の乗組員約400人が漂流している姿だった。

奇しくも工藤は、敬愛する上村将軍と同じ状況におかれてしまったのだ。ならば彼が取れる選択肢は一つだけである。

漂流者をどうするかとたずねるほかの士官たちに、工藤は言い放つ。

「漂流者救助」

漂流者集団へと転進した工藤は、一番砲塔の兵員以外の全員を救助活動に当たらせ、助けたイギリス兵には新しい衣服と食料が分けあたえられた。

そして全員を前甲板に集め、工藤は告げる。

「よくぞいままで勇敢に戦った。諸君らは日本海軍の名誉あるゲストである」

工藤は丸一日かけて生存者の捜索を行い、午後にも18名の生存者を救助。工藤の決断によって、420人近いイギリス兵が命を救われたのである。

元英軍兵によって明らかとなった栄誉

ただ、工藤の決断は上層部のだれにも評価されることはなかった。

その後の工藤は、同年8月に駆逐艦「響」に転属となり11月には中佐に昇進するが、連日の転戦で体調を崩して12月に横須賀鎮守府に転出。工藤の手を離れたあとの「雷」は、1944年4月にグアム島沖で沈没する。

横須賀で終戦を迎えた工藤はスラバヤの出来事を、1979年に亡くなるまでだれにも話そうとはしなかった。そんな工藤中佐の評価は、元イギリス海軍中尉サムエル・フォール卿来日まで待たなければならない。

砲術士官だったフォール卿は、スラバヤ沖海戦で「雷」に救助された一人で、戦後は外交官として活躍しながら、工藤の消息を探し続けていた。1987年にはアメリカ軍の機関紙に工藤をたたえた文章を投稿。1998年にはイギリスの新聞「タイムズ」に、「雷」の敵兵救助を紹介する投稿文を送っている。

そして2003年、フォール卿は来日。工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えることを希望したが墓所等の場所がわからずに断念する。だが、2004年に所在が判明。2008年の再来日で、念願の墓参りを実現させ、記者会見でフォール卿は工藤に対する感謝の思いを語っている。

たしかに日本海軍では、イギリス商船の船員60人を殺害した巡洋艦「利根」の事件のように、捕虜を虐待虐殺したことはある。だがその一方で、工藤のように敵兵にも救いの手を差し伸べる人情ある軍人がいたことは、紛れもない事実なのだ。

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