藤原仲麻呂の台頭と橘諸兄の失脚

 

 孝謙天皇は、このときすでに32歳、しかも独身であった。天皇という国家の最高権威にある限り、もはや婚姻は諦めざるを得ない。したがって、孝謙天皇の即位は、草壁皇子から綿々と受け継がれてきた系統の断絶を意味する。そんな孝謙天皇が重用したのが、藤原仲麻呂だった。

 一旦は政治の重要な場から追われた藤原氏だったが、聖武天皇があくまでも藤原系の後嗣にこだわったように、その立場は失われていない。そんななか、藤原氏再建の期待を背負ったのが仲麻呂である。

 仲麻呂の父・武智麻呂は光明皇后の異母兄弟にあたる。『日本書紀』からはじまる律令時代成立の正史「六国史」のひとつで、奈良時代の基本史料『続日本紀』によると、仲麻呂は年少時代に算術を学び、すぐれた学才を発揮。秀才の誉れが高かった。また、叔母である光明皇后の信任も厚く、皇太子時代の孝謙天皇とも懇意であったとされる。

 橘諸兄を登用させたのは光明皇后だったが、その後ろ盾は元正上皇だった。さらに、孝謙天皇は即位にともない大掛かりな人事異動を行い、仲麻呂は中納言を経ずに大納言に就任。仲麻呂の兄の豊成は右大臣となる。このとき諸兄は左大臣なので二人より立場は上だが、当然のごとく確執は生じる。さらに、光明皇后は皇太后となって、孝謙天皇を支える。この皇太后・天皇・藤原氏の政治体制が確立したため、諸兄の立場は弱体化していくことになる。

 

仲麻呂専制への反発

 

 しかし、多くの群臣たちは、孝謙天皇の即位に否定的だった。そこに藤原氏が台頭してきたのだから、いっそう不満は高まる。橘諸兄の子・奈良麻呂などは、仲麻呂打倒のため決起すら考えていたらしい。

 だが756年、諸兄は政権を退く。理由は前年に「酒宴で朝廷を誹謗した」との密告があったためだ。この密告を病床にあった聖武上皇は握り潰したものの、諸兄は左大臣を辞職。その翌年、失意の内に生涯を閉じる。

 諸兄が辞職した3ヵ月後、聖武上皇が崩御。遺志によって天武天皇の孫である道祖王が皇太子となる。しかし孝謙天皇は、これを認めない。理由として挙げられたのは、道祖王の侍童に対する淫らな振る舞いや、宮中の秘密を漏らしたこと、それを咎める天皇の忠告を聞き入れなかったこと、などである。

 これに対して群臣も賛同し、皇太子という立場は廃される。そして、次の候補となったのが757年に立太子した大炊王である。

 大炊王は舎人親王の子で、やはり天武天皇の孫に当たる。そして大炊王は、仲麻呂の亡き長男の妻・粟田諸姉と結婚していた。つまり、大炊王は仲麻呂の義理の子となる。さらに、大炊王は仲麻呂邸に同居。すなわち、仲麻呂はもっとも関係の深い皇子を皇太子に据えたのである。

 さらに仲麻呂の専横は強まり、藤原氏とは別の「藤原部」という姓を「久須波良部」と改めさせ、鎌足や不比等という名を称することを禁止。不比等が着手していた「養老律令」を施行し、「紫微中台」を設置する。紫微中台は表向き、皇太后の家政機関だが、実態は政務機関である「太政官」とは別の国政機関である。ここから皇太后の令旨(命令)が発せられることとなり、その長官に仲麻呂は就任する。つまり、皇太后の命令という名目で、仲麻呂が政治を左右することになり、主な令旨は軍事行動であった。

そんな仲麻呂の行動に、反発勢力が沸き起こるのは当然だ。しかし、仲麻呂は人事異動で、これらを排斥。ここで反仲麻呂派の不満は、頂点に達するのだった。

 

未遂に終わった橘奈良麻呂の乱

 

 大炊王が皇太子となり、養老律令が施行され、仲麻呂が紫微中台の長官となった同じ年、その専横に対して反旗を翻す人物が出た。橘奈良麻呂である。

 諸兄の子である奈良麻呂は、兵部卿という軍事関係のポストから右大弁という事務方の管理職へ追いやられていた。また、同じく反仲麻呂派の大伴古麻呂も陸奥国(現東北地方)へ左遷されている。

 そのような状況の中で、山背王が孝謙天皇に密告。それは、「奈良麻呂が武器を集め、仲麻呂の邸宅(田村宮)を包囲しようとしている。その事情を大伴古麻呂も知っている」というものだ。

 山背王は長屋王の子なので、本来は反藤原である。しかし、決起直前に裏切った様子から察するに、それだけ仲麻呂の権威が高かったともいえる。しかし、天皇と光明皇后は諸臣に対して、事を荒立てないよう自重を呼びかけている。

 だが決定打となったのは、天皇の護衛機関・中衛府の舎人である上道斐太都という男による密告だ。それによると、前備前守・小野東人が斐太都を反乱の仲間に誘ったという。仲間には、山背王と同じ長屋王の子である黄文王、兄の安宿王、そして奈良麻呂と古麻呂らの名が挙がる。そして、その計画内容は、兵400を率いて田村宮を包囲することと、古麻呂が陸奥へ赴く途中で美濃の不破関を押さえることであった。

 それを聞いた斐太都は東人に対し、承諾した振りを見せつつ、その日のうちに仲麻呂に報告。仲麻呂は直ちに皇太后に事情を説明し、東人らを逮捕し、道祖王の邸宅を包囲した。

 逮捕された東人は、厳しい拷問に耐えられずに自白。それによると、反乱の密議は3回行われたという。そして、「挙兵後は田村宮を囲んで仲麻呂を殺害し、続いて東宮(皇太子の住まい)を包囲して大炊王を廃太子する。次に皇太后の宮殿を襲って御璽(天皇の印)と駅鈴(公務出張の際に支給された鈴)を奪う。右大臣豊成を新政権の代表とし、黄文王、安宿王、道祖王、天武天皇の孫の一人・塩焼王のいずれかを天皇に即位させる」という計画も明らかにした。これが、未遂に終わった橘奈良麻呂の乱の顛末である。

 

頂点を迎えた仲麻呂の権威

 

 この自白に基づき、関係者を一斉に逮捕。その数は400人以上にも上る。黄文王、道祖王、古麻呂、東人らは杖で打ち殺され、『続日本紀』に残されていないが、奈良麻呂もこのとき獄死したと考えられる。また、安宿王は佐渡島に配流。塩焼王は関与の証拠がなかったため、臣籍降下(皇籍離脱)の処分となる。

 これにより、仲麻呂は反対派を完全に取り除くことができた。ただ、問題なのは藤原豊成である。

 豊成は仲麻呂の兄でありながら、東人の自白から関与していたのは明らかだ。しかし、関係者の取調べで、具体的な証拠は得られていない。だが、豊成の子・乙縄が奈良麻呂の乱に関与したとして逮捕されると、豊成は連座して大宰府への左遷となった。

 ここに仲麻呂政権とも呼べる、磐石な体制は確立された。仲麻呂は矢継ぎ早に、新しい政策を打ち出す。

 まず、民衆には租税を半額もしくは全額を免除し、労役負担である雑徭を半減させる。さらに、九州沿岸防備のための兵役(防人)を、それまでの東国からではなく、九州から充てることにする。くわえて、旅行中の病人の保護を命じたり、全国に役人を派遣して民衆の状況を視察したり、かなり民政に重きを置いた。

 そんな仲麻呂は、官名を唐風に改め、自らは右大臣に相当する「太保」に就任。758年には孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位する。47代淳仁天皇だ。

 義理の息子を天皇にまで押し上げた仲麻呂には「恵美」の姓が加えられ、押勝という名が与えられた。これにより、仲麻呂の正式な名前は「藤原恵美朝臣押勝」となる。さらに、功封(功績によって支給された税を徴収できる戸)3000戸、功封100町(約1平方キロ)が永代にわたって支給される。また、貨幣の鋳造や出挙(有利子賃借)も認められ、760年には最高位である太師(太政大臣)に任じられる。仲麻呂は地位や権力だけでなく、巨大な経済基盤も確立したのである。

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