太平洋戦争はこうしてはじまった㉙

傀儡国家「満州国」の建国宣言


1932年3月1日、満州国は建国を宣言。第一次上海事変が停戦する2日前のことである。形式上では現地民の主体的行動という形を取り、宣言発表は東北有力者で構成された東北行政委員会が行った。執政(国家元首)には愛新覚羅溥儀が就き、国務院、法院、立法院、監察院で構成された議会制民本主義として、表向きは満州人の国として独立を果たす。しかし、実権を握っていたのは日本人と関東軍である。
 3月10日、溥儀は関東軍に軍司令官宛の書簡へのサインを求められている。内容は、国防・治安の権限と重要インフラの日本委託、日本軍施設への援助、中央・地方官庁の人事権委託など、国家の主導権を日本と関東軍に事実上譲渡するものだった。署名は任意とされてはいたが、関東軍の武力に逆らえずに溥儀は署名。満州国は関東軍の傀儡国家として成立することになった。
 首相に当たる国務総理は溥儀の側近鄭考胥が選ばれ、各部署のトップも現地人が任命されていたが、実権を握っていたのは日本人の次官だ。関東軍は満州国の内面を「帝国の政治的威力を嵌入せる中央独裁主義」と定め、政府と地方官庁は日本人が「内面指導」することになっていた。
 首相の業務は日本人の国務院総務長官が行い、各部署も日本人次官が実権を独占していた。最高意思決定機関とされた国務院会議も機能していない。出席する各部総長に政策決定権はほとんどなく、日本人次官のみで構成された次官会議が可決した議題を確認するだけだった。まさしく満州国は、関東軍を中心とする政権支配が敷かれていたのだ。
 満州国の建国に際し、陸軍中央は1月6日の時点で海軍省や外務省関係課長と合同で「支那題処理方針要項」を策定。独立国家建設を事実上容認し、内閣も3月12日に「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定する。関東軍の進撃を受けて、陸軍内では満州独立を支持する一友会が影響力を伸ばし、犬養内閣の荒木貞夫陸相も派閥からの支援を受けていた。
 影響を増す陸軍部への配慮で、犬養毅首相は満州事変そのものを認めざるを得なかった。それでも独立国の建設には終始消極的で、3月の閣議決定で基本的に了承したものの国家としての正式承認はしていない。承認を可能な限り遅らせることで、国際的非難を可能な限り回避しようとしたようだ。しかし軍部への非協力的な態度は青年将校たちの怒りを買い、ついには暗殺事件に発展することになるのである。

本記事へのお問い合わせ先
info@take-o.net

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?