太平洋戦争はこうしてはじまった㉖
関東軍による満州制圧
張作霖爆殺以降、満州では張学良の反日行動が過激化を続け、日本の大陸利権が脅かされつつあった。1928年に関東軍入りした石原莞爾中佐は、これを解決するべく満州の武力制圧を目論む。石原には「世界最終戦争論」という独自の理論があり、将来的な日米決戦に備えて資源豊富な満州の獲得を計画していたのだ。
作戦主任参謀に就任した石原は、高級参謀板垣征四郎大佐を味方につけると、関東軍内に謀略を巡らせ始めた。そうした中で起こったのが、1931年5月に中国人農民と朝鮮人農民のトラブルに日本人警察が介入した「万宝山事件」と、翌月に興安嶺の調査に派遣された中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長が中国軍に殺害された「中村大尉殺害事件」である。
これらの事件により、日本国内では日本居留民保護を求める世論が沸騰。国民世論は、関東軍の軍事行動を正当化させる絶好の機会となった。すでに陸軍省と参謀本部も、同年度に「満蒙問題解決方策大綱」を定め、翌年度の武力行使の検討を関東軍に通達している。しかし石原は期限を待つことなく、作戦は実行に移されたのである。
9月18日、奉天郊外の柳条湖で線路の一部が何者かに爆破された。関東軍はこれを張学良の仕業と断定。本拠地である奉天城へ攻撃を開始する。もちろん線路爆破は関東軍の自作自演だ。翌日に奉天を制圧した関東軍は、そのまま営口、鳳凰城、安東、吉林へ進軍。張学良は日本との決戦を望まぬ蒋介石の指示に従い、散発的な抵抗だけで撤退する。関東軍は1932年2月の初め頃までに、満州全土をほぼ無血占領する。これが「満州事変」である。
当初、関東軍は満州の直接併合を予定していた。しかし参謀本部は、さすがにこれを許さなかった。満蒙問題解決方策大綱では、満州問題の解決を三段階に分けている。第一段階は親日傀儡政権の樹立、第二段階で独立国家とし、第三段階で日本が併合するというものだ。この計画に従い、まずは親日政権を作るべきと主張したのである。
いきなりの傀儡国家成立は国際的非難を免れないが、地方の独自政権なら軍閥が地方自治をしていた前例から、まだ許されるという計算だ。関東軍はこの提案に従い、満州の新政権建設に着手。政権首長に選ばれたのは、清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀。そして天津租界に避難中の溥儀を説得するべく、関東軍は奉天特務機関長・土居原賢二大佐を説得のため派遣したのだった。
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