太平洋戦争はこうしてはじまった62

米国国務長官が提案したハル・ノート
 
 日本の開戦準備が完了しつつあった裏で、日米交渉も転機を迎えていた。アメリカの甲案拒絶により、野村吉三郎駐米大使と来栖三郎大使は1941年11月20日(現地時間)に乙案を掲示。だがアメリカ側は「ハル四原則」の不徹底などを理由に難色を示す。
 ハル四原則とは、日米諒解案交渉の最中にコーデル・ハル国務長官が掲示した「国家・国際観念の調整と尊重」「欧州戦争と日中戦争の関係調整における内政不干渉」「通商の機会均等」「太平洋の安定化と経済活動」を示した四つの交渉原則だ。日本側の乙案・甲案はともに大陸即時撤兵に触れていないため、四原則を満たしていないとハルは拒絶したのである。
 そもそも、アメリカ側は暗号解読で乙・甲案の内容は大方掴んでいた。そのため日本側の提案にさほど驚きはなく、拒否は既定路線だったという。そして乙案への返答が26日になされることになる。
 ハル自身の試案という名目で手交された文書は、全2項目で構成されていた。第1項では再びハル四原則が明記され、メインは10項目で構成された第2項である。主要な部分を抽出すると、「英米中蘭を中心とする各国との包括的不可侵条約締結」「仏印と中国からの全面撤退」「蒋介石政権以外の中国政権の否認」「三国軍事同盟の空文化」である。これらを原則としつつ交渉を続行し、結果次第で経済制裁を解除するとした。
 つまり、満州事変直後の状況に時計の針を巻き戻せと通達したのである。この文書が「合衆国及日本国間協定の基礎概略」、日本では「ハル・ノート」と呼ばれる回答書だ。
 文書冒頭に「一時的かつ拘束力なし」と記し、回答期限もなかった。しかしハル本人は、翌27日のスティムソン陸軍長官との電話で「交渉から手を洗った」と伝えているという。日本側の大使館、陸海軍武官も本国に本書の内容を送信する際、「成立の望みなし」と同じ見解を伝えている。
 大陸や仏印からの無条件撤退は軍部が許さず、同盟の空文化もまた同様に難しい。撤退対象の「中国(China)」に満州が含まれているかも問題となった。また、御前会議で開戦期限が設定された以上、交渉の長期化も不可能だ。日本が条件を呑める余地はなく、日米交渉は事実上決裂したことになる。
 それでも駐米日本大使館は、27日にハル・ノートの見直しをルーズベルト大統領に直接提案し、条件緩和に関する活動や首脳者会談工作を続けていたのである。

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