太平洋戦争はこうしてはじまった㉜

改善の余地が残されていた国際連盟脱退


 リットン調査団の結果を受けて、国際連盟は1932年11月21日より報告書の審議に入った。松岡洋石全権は日本を「十字架のイエス」に例えた演説で理解を得ようとしたが、国内では報告拒否を求める世論が圧倒的多数であった。12月19日に拒否の共同声明に参加した新聞は全国で132紙。日比谷公会堂では緊急国民大会が開催され、国連脱退を強く求められた。
 日本政府も「日満議定書」で承認した手前、事態を戻すことはできない。利権確保の観点からも、満州国の国際承認は決して譲れなかった。もし満州国を否定されたときは、国連脱退を視野に入れる空気が政府と民衆内に蔓延していたのである。
 こうした状況を揺るがしたのが、再度開始された関東軍の軍事行動だ。1933年1月3日、中国兵による陸軍兵舎攻撃を口実として関東軍は熱河省に侵攻する。この兵舎攻撃は関東軍の自作自演とされ、満州南西部の国境安定化と同方面の親日傀儡政権の樹立が真の目的であった。
 この「熱河作戦」は5月31日の停戦協定で終結したが、報告書審議中の武力行使は国連の態度を硬化させた。作戦中の2月24日、国連特別総会で満州国の独立は正式に否認される。リットンの調査書に基づき作成された「日中紛争に関する国際連盟特別総会報告書」に従い、日本の既得権益は九ヶ国条約の原則内のみで保証すると勧告したのだ。
 松岡全権は政府訓令に基づき、国連脱退を告げて議場から退場。3月27日に政府が連盟理事会に正式な脱退通告を行い、日本は国連を去ったのである。
 これによって日本は世界から孤立した、と教科書では教えられている。だが、この時点では対外関係は保たれていた。国際連盟の規定では、脱退通告から2年間は加盟国としての義務の遂行が必要とされていたのだ。そのため、各国連委員会との関係は続いていたし、1935年の国際司法裁判所の判事も日本人が選ばれた。国連の満州国への処置も、最後まで法的処置のない「勧告」のままだ。また、ソ連も正式承認は否定しつつも、日本との対決を回避するべく自国内への満州国の領事館設置を認めている。
 日本と海外の関係は途切れておらず、この時点では外交努力による関係改善の余地が残されていたのである。

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