太平洋戦争はこうしてはじまった㊱
尊皇討奸決起隊蜂起
1936年2月26日午前3時、30年ぶりの大雪が東京に振る中で、襲撃は実行に移された。参加兵力は歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊、野戦銃砲兵第七連隊の一部兵力と民間右翼の協力者を含めた1558名。非常呼集で集結した兵は完全武装を施し、磯部浅一らは部隊の下士官に「決起趣意書」を読み上げた。
野中四郎大尉の決起表明文を村中考次らが手直しし、決起理由を示したものだ。決起のスローガンは「尊皇討奸」。「天皇の世を実現するため奸賊を討つ」という、維新決行の表明だ。部隊は午前4時30分頃より各兵営を出発。そして各々の粛清対象へと向かったのである。
皇道派決起の動きは政府もある程度は掴んでいたが、規模や時期までは把握できていなかったようだ。そのため入念な防備を敷けず、多数の重鎮が命を落とした。近衛歩兵第三連隊120名に寝込みを襲われ、高橋是清大臣は赤坂私邸で落命。斎藤実内大臣も歩兵第三連隊210名に四谷仲町の私邸で襲撃を受け、40発以上の弾丸を撃ち込まれて即死した。
真崎甚三郎の後釜として教育総監となった渡辺錠太郎大将も、荻窪邸で銃撃戦ののちに射殺され、鈴木寛三郎侍従長は歩兵第三連隊200名の攻撃で重傷を負い、神奈川県湯河原8名に襲われた牧野伸顕前内大臣は命こそ助かったが、警備の警官1名が射殺されて別荘がわりの旅館も放火されている。
そして、首相官邸もまた皇道派の攻撃に晒されていた。主力部隊の歩兵第一連隊300名との戦いで、官邸の警備を担っていた警察官4人が殉職。内部に突入した栗原安秀中尉の部隊は寝室で岡田啓介首相らしき人物を発見し、射殺すると首相官邸を占拠した。
ただし、このとき殺されたのは秘書官の松尾伝蔵予備役大佐である。岡田首相は押し入れに隠れて難を逃れたが、事件終結まで30時間も忍耐を強いられることになる。なお、西園寺公望元老の暗殺は、決起隊内からも批判が相次いだため中止されている。
こうした要人襲撃の一方で、参謀本部、内務大臣官邸、警視庁も決起隊に占拠され、朝日新聞も破壊行為を受けている。陸軍省も第一連隊の支配下に置かれ、磯部と村中らは川島義之陸相との面会で協力を要請。これ以降、陸軍大臣公邸は実質的な決起隊の本拠地となる。決起隊の初期目標は、おおむね達成されたのだ。
しかし、決起隊は粛正後の具体的な構想は練っていなかった。この見通しの甘さが、蜂起を失敗に追い込むことになる。
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