太平洋戦争はこうしてはじまった63

国内を一致団結させたハル・ノート


 実は、コーデル・ハル国務長官は「暫定協定案」という別案も作成していた。ハル・ノートよりも穏便な妥協案だったというが、連合国内で内示されたあと廃案となっている。これが採用されていれば開戦はなかったという説もあるが、結果は大差なかっただろう。そしてハル・ノートが開戦の決め手という説も、また誤りだという。
 日本の政府・軍部は開戦方針をほぼ固め、1941年11月26日の御前会議にて、12月1日の「外交能否に拘ら」ない御前会議の開催を決めている。12月会議の目的は、開戦に関する法的執行の確認が目的だ。それを外交の成否に関係なく行うことは、日米開戦が半ば確定したことに他ならない。
 11月27日の連絡会議では開戦事務手続きの順序を外務省より上程され、審議決定に至っている。駐米大使からハル・ノートについての連絡が届いたのは会議の直後か最中。全文が送信されたのは夜間から翌日にかけてだという。
 昭和天皇がアメリカの回答を報告されたのは28日。重光葵の手記によると、天皇はこの日に開戦を決意したというが、歴史学者山田郎氏の研究によれば11月5日の御前会議までに戦争容認へとかたむいたようだ。このように、ハル・ノートの到着前には、すでに国内の開戦方針はほぼ固まっていた。したがって、国務長官の文書が開戦の直接原因とは言い難いのである。 
 日本にとってハル・ノートの意義は、開戦へのダメ押しだ。吉田茂の回想によると、政府は訳文をより過激な表現に書き換え枢密院に回付していたという。枢密顧問官深井英五も、12月4日に東条首相と東郷外相が、じきじきに枢密院で対米交渉の経緯とハル・ノートに関する大使館判断を説明したとしている。
 また、開戦後の話になるが、12月9日に日米交渉経過と称してハル・ノートの要旨を各新聞に掲載させ、国民の戦意高揚に利用したという。総力戦を遂行するには、軍部や政府以外の勢力と国民の意思統一が必要不可欠だ。そこに降ってわいたのが、アメリカの強硬な回答文書である。ハル・ノートは、軍部にとって国内の一致団結を可能とする「天祐」でもあったのだ。
 こうして国内の団結を目指す中、外務省は軍との協議の上で駐米大使館に28日付で「実質的な交渉決裂を悟られぬよう」と電報を打つ。事実上の開戦決定により、現地の外交工作を欺瞞工作に利用しようとしたのだ。すべては陸海軍の奇襲を成功させるため。ハル・ノートという手助けを受け、開戦は秒読み段階に入っていたのである。

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