武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑧

米軍兵士をとりこにした東京ローズ

NHKが放送したラジオの国際放送

 太平洋戦争後期のアメリカ兵の間で一世を風靡した日本人がいた。それは将軍でもなければ芸能人でもない。ラジオ放送の女性アナウンサーである。ニックネームは「東京ローズ」。彼女に会うため日本上陸を心待ちにした兵もいたという。
 1935年より日本放送協会(NHK)ではラジオの国際放送をはじめており、太平洋戦争の勃発後は日本軍の対外宣伝に利用されていた。この英語や中国語など約20ヶ国語で放送されたプロパガンダ放送を、連合国では「ラジオ・トウキョウ」と呼んでいた。
 放送内容は連合国の不利を虚偽混じりで伝え、あるいは捕虜を使った呼びかけといったオーソドックスなものだった。連合国は「姿なき爆弾」として警戒し、その放送内でもっとも注目された番組が「ゼロアワー」である。
 ゼロアワーは1943年に大本営陸軍報道部の主導で始まった番組で、最大の特徴は娯楽性である。プロパガンダラジオといえば、刺々しい口調で主張を訴えかける真面目なものが連想されがちだ。しかし陸軍と日本放送協会は堅苦しい放送だと若い兵士は聴かないとして、あえて娯楽要素を強めていたのである。
 例えば、放送のBGMには欧米人が慣れ親しんだジャズを採用。敵性音楽規制で失職していたジャズ演奏家を集め、「ニューオーダー・リズムオーケストラ」という独自のバンドを結成するほどの徹底ぶりだった。

アメリカ軍も無視できなくなったゼロアワー

 アナウンサーも男性将兵の興味を引けるように、若い女性が採用された。この女性が東京ローズである。なお、東京ローズとは連合国将兵が付けた愛称。番組内では「孤児のアン」と呼ばれていた。またアナウンサーとなった女性は一人ではなく、複数人いたようだ。
 流暢な英語でフランクに話す東京ローズは、女性と接する機会の少ない兵士たちの心をまたたく間につかんだ。ジャズ音楽や軽快なトークは兵士の貴重な娯楽となり、当時のアメリカで人気のキャラクター「ポパイ」を、日本の捕虜になったという設定で登場させることもあった。もちろんプロパガンダ放送なので、捕虜の手紙の朗読や偏向された戦況報道で戦意低下も狙っている。
 こうしたゼロアワーの影響力はアメリカ軍も無視できず、対外放送の受信調査を担当する外国放送受信局は「慎重に計算された巧妙なプロパガンダ」と報告書内で語ったという。また、1944年3月20日付の「ニューヨーク・タイムズ」でも東京ローズを取り上げ、戦後の1946年には「TOKYO ROSE」という映画が製作されるほど、日本のプロパガンダ放送はアメリカの関心を集めていたのである。

被告人となったアイバ・戸栗・ダキノ

 終戦後、多くのアメリカ人従軍記者が来日していた。目的は戦争の重要人物へのインタビューで、そのなかには東京ローズもふくまれていた。ラジオ・トウキョウは「東京ローズと名乗った女性はいない」と返答したのだが、記者らの調査で一人のアナウンサーが発見される。彼女の名はアイバ・戸栗・ダキノだ。
 日系アメリカ人二世としてロサンゼルスで生まれたアイバは、叔母の見舞いで来日していたさなかに日米戦が勃発して帰国不能となっていた。幾度か帰国を試みたようだが、アメリカの日系人強制収容政策のせいでかなわなかったという。開戦後はタイピストの仕事に就いていたところ、英語力を評価されてゼロアワーのアナウンサーに抜擢されたのだ。
 戦後、アイバは2000万ドルと引き換えにインタビューに応じたが、報酬が支払われることはなかったという。それどころか、反逆者として巣鴨プリズンに収容され、FBIによる取り調べののちにサンフランシスコで裁判にかけられたのだった。

なぞに包まれた東京ローズの正体

 裁判費用は約50万ドル、証人は約100人というアメリカ史上最大規模の裁判だったが、陪審員は全員白人が務め、アイバの有罪はほぼ確定路線となっていた。判決は当然有罪。禁固10年と罰金1万ドル、そしてアメリカ市民権はく奪が言い渡された。
 アイバは6年2ヶ月後に釈放されるが、市民権は戻らなかった。しかし、公民権運動の高まりで戦時中における日系人弾圧の見直しもはじまり、アイバの裁判も再検討の動きが起こりつつあった。そして1977年、嘆願書の受理によってアイバの市民権は復活したのである。
 こうして東京ローズを巡る騒動は終結を見せた。ただし、アイバ以外の東京ローズについては、いまだ謎が多い。裁判の中でも声質の不一致が指摘されているので、メインのアナウンサーは別にいたというのが通説だ。米軍兵士を熱狂させた東京ローズは、いまもむかしもなぞ多き存在なのである。

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