太平洋戦争はこうしてはじまった㉛

リットン調査団の派遣


 満州事変に対して国際社会は強い懸念を示していたが、制裁活動に踏み切った列強国はなかった。強気の姿勢を示したのはアメリカのみである。1932年1月7日、アメリカは中国の領土と主権、門徒解放の減速を逸脱する状態を拒否する方針を発表している。この「スティムソンドクトリン」で対日反発を露わにした一方、他の列強国は半ば黙認していたのである。
 イギリスは中国に日本との直接交渉を促し、仏伊も「満州からの日本排除はソ連に利する」と半ば反対していた。列強が強硬策に及び腰だったのは、日本が国連の常任理事国だったことと、世界恐慌の後遺症で制裁の余力がなかったためだ。アメリカも対日方針こそ定めはしたが、直接的な制裁はしていない。関東軍が軍事行動を起こしたのも、欧米の介入はないと判断したのが理由のひとつだ。
 それでも、1931年12月10日の連盟理事会では、満州への視察団派遣が可決されている。派遣を提案したのは、意外なことに日本だ。このとき、中国は満州調査を国連に提訴。日本も調査結果の裏付けを得てからの満州権益保護をもくろみ、自ら同年11月21日に提案したのである。使節団は翌年2月3日に満州へと出発。これが、いわゆる「リットン調査団」だ。リットンとは調査委員長のヴィクター・リットンのことだ。
 調査団はまず2月末に日本を訪問し、昭和天皇と謁見したのちに政府や軍の要人から事情を聴取した。その後に大陸へと渡ると、蒋介石、張学良などの中国要人と会談。4月から約6週間も満州で現地調査を実施し、7月に再び日本で首相外相に聴取した。10月2日に公表された報告書の内容は次の通りである。
 まず、中国の行動を日本への権益侵害と認めつつも、関東軍の行動は自衛範囲を逸脱しているとした。満州建国を現地人の自発的独立とする日本側の意見を退け、国家としての成立を事実上否定したのである。ただ、満州における日本の権益は否定せず、満州の地方政権樹立の必要性も認めた。
 そこで、満州の政府を中国主権下におきつつ、日本との協議の上で樹立させることとし、その際に日中間で権利・責任に関する新条約を締結。日本の対満権益を新政権内で継続させるという案を掲示した。つまり、日中双方に配慮した妥協案だったのである。しかし日本は報告結果を不服とし、より重大な決断を下すことになる。

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