太平洋戦争はこうしてはじまった㊳

決起隊の処罰と陸軍統制派の躍進


 陸軍官邸にて出頭した青年将校らは憲兵隊に武装をはく奪されたが、軍刀だけは無事だった。「責任を取り自決せよ」という陸軍からの暗黙のメッセージであったが、磯部浅一ら決起隊は誰も自決はしなかった。軍法会議を通じて世間に主張を広めようとしたのである。
 当初、陸軍では師団軍法会議を予定していた。この場合、一般にも公判が公開され、弁護人の選任と上告の権利も認められている。だが、治安回復のため迅速な解決が迫られたこと、1936年3月1日の枢密院会議で天皇出席のもと緊急勅令が可決されたこともあり、特設軍法会議が設けられることになる。公判は未公開となり、弁護人もつかず、上告の権利もない。青年将校の思惑は崩れ去ったことになる。
 3月4日から7月5日までの裁判により、磯部を含めた15名に死刑判決が下される。うち13名が7月12日に銃殺。磯部と村中考次は、決起隊への影響を問われた思想家北一輝と西田税とともに翌年8月19日に処刑され、ようやく事件の処理は完了した。
 ただ、決起隊を支持した高級将校は誰一人処罰されず、真崎甚三郎も1937年9月25日に無罪となっている。この事件で皇道派は力を失い、統制派の勢力が拡大することになる。そして事件の余波を利用し、政治介入を強めていった。
 当時は衆議院選挙で政友会が大敗を喫し、民政党政権に戻っていた。左派の社会大衆党も18議席にまで躍進しており、政党政治が復活する可能性もあった。その流れを断ち切ったのが二・二六事件だ。外務大臣の広田弘毅に組閣の大命が下されると、軍部は陸軍大臣の選定を拒み、自由主義者の入閣阻止を訴える。大日本帝国憲法下では首相に閣僚を任命する権限はなく、陸海軍大臣はそれぞれの軍から推薦される必要がある。もしも候補が出ない場合、組閣は不可能となるのだ。
 人事を人質とした軍部に広田は抵抗しきれない。閣僚人事にまで介入した陸軍は、次に大臣候補を現役将校のみとする「現役武官制」を復活させる。元皇道派予備役の復帰を阻止するとともに、大臣候補を現役に限定することによって内閣の倒閣がより簡単となった。
 それまでも退役将校が大臣となる前例はなかったものの、逃げ道を塞いだことは極めて大きい。まさしく二・二六事件を機に、陸軍は日本の主導権を取り戻したのである。

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