太平洋戦争はこうしてはじまった㊽

激戦となった第二次ノモンハン事件

 
 日ソの再戦は1939年6月末より始まった。日本軍の兵力は第二三師団と第七師団の一部などを含めた5万8925人。関東軍は航空隊の情報からソ連軍は撤退中だと判断して、迅速な包囲殲滅を仕掛けようとしていた。主力部隊が渡河したのちに西岸の敵陣地を攻撃し、機械化部隊の安岡支隊が東岸を南下しつつ残存部隊を駆逐するという作戦だ。当初は戦車部隊も渡河する予定だったが、架橋用資材の不足で断念している。
 しかし、ソ連軍の撤退は誤報であった。ゲオルギー・ジューコフ軍司令官の計画に基づき大兵力の派兵を進め、事件終盤までにソ蒙合計7万7676人にまで増強されている。戦車数も日本が73輌なのに対し、ソ連軍は186輌。6月30日、行軍中の戦車第四連隊がソ連の小規模部隊と遭遇する。撃破はしたものの、北村良一中尉が戦車もろとも爆死。これが第二次ノモンハン事件初の戦闘だ。
 7月2日夜より安岡支隊は東岸にて夜襲をかけ、一時的にソ連軍を混乱させた。しかし明け方以降は対戦車用陣地に苦戦を強いられ、7月6日に撤退命令が下される。渡河に成功した歩兵の小林兵団も西岸で敵戦車部隊の猛攻を受け、橋崩壊による孤立の危険から7月4日に退いた。
 7月7日から11日の夜襲作戦も効果は一進一退。7月23から25日の総攻撃でも、ソ蒙軍の砲兵火力に推し負け、七三三高地の近辺など一部陣地を奪った程度に終わった。その後は一ヶ月近くも膠着状態が続いたが、8月20日にソ連軍が総攻撃を決行。関東軍は反撃命令を下すが、ソ連の猛攻で24日にはフイ高地、26日にはノロ高地の守備隊が撤退した。なお、両高地の指揮官は撤退の責を問われて自決を強要されている。
 残る七三三高地も31日に陥落し、一連の戦いで第二三師団は戦力の約8割を失う大損害を被ってしまった。この七三三高地の戦いを最後にソ連軍の進撃は止まり、第二次ノモンハン事件は事実上終結した。モスクワで正式に停戦協定が結ばれたのは、9月15日のことである。
 日本の死傷者数は1万9668名。ソ連軍は諸説あるが、2万3926名ほどだとされる。被害はソ連軍が多く、日本軍に苦戦を強いられていたことがわかる。関東軍は8月27日の時点で再派兵を計画していたが、参謀本部の中止命令で実行はされなかった。参謀本部が曖昧な態度を一転させた理由。それは独ソ不可侵条約締結で、陸軍の戦略が根底から覆されたからである。

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