太平洋戦争はこうしてはじまった55

日米交渉の失敗に繋がる南部仏印進駐


 日本軍の南方進出は早期に検討されていて、1940年7月策定の「時局処理要綱」の冒頭では、日中戦争の解決促進と同時に好機をもって南方問題を解決するとしている。当時の仏印・南方は中国国民党を支援する「援蒋ルート」の主要路で、かつ長期戦に必要な天然資源の宝庫でもあった。日本陸軍はドイツ軍による英国占領という「好機」を待って、南方のルート封鎖と自給体制の確立を成そうとしたのである。
 しかし、ドイツ軍の停滞で好機はついに訪れず、北部仏印進駐後は交渉による解決を目指すことになる。1941年4月制定の「対南方施策要綱」の中では、南方地域における経済関係の強化を目標とし、武力行使は米英蘭が安全保障を脅かした場合のみと定められていた。資源獲得を目指した日蘭交渉も始まってはいたが、ドイツの同盟国である日本にオランダは警戒し、親独のフィジー政権に懐疑的な南部仏印のフランス部隊も資源・食料の提供に前向きではなかった。
 業を煮やした日本政府は6月11日に対蘭交渉を打ち切り、同日の大本営政府連絡懇談会にて陸海軍首脳部の合同で「南方施策促進に関する件」が提出された。これは南部仏印の軍事的統合を第一とし、もし米英蘭の妨害があった場合は開戦も辞さないとしたのである。もっとも、この段階では本気で米英開戦を想定してはおらず、過激な言文は国内過激派に配慮したハッタリだったようだ。
 一方の米英は、暗号解読で南部進駐の動きは掴んでいた。7月5日にはイギリスが駐日英国大使を通じて日本に警告を送り、アメリカも野村吉三郎駐米大使に経済制裁をほのめかしていた。ただ、それ以上の行動は取らなかったため日本を御しきれず、7月23日にヴィジー政権との間で成立した細目協定に従い、28日に南部仏印進駐が成されたのである。
 北部仏印とは対照的に、南部仏印は平和的進駐が達成された。「南部仏印進駐」で南進は一部達成できたのだが、この成功が日米交渉の失敗に繋がることになる。アメリカが仏印全土の進駐を、侵略行為と受け取ったからだ。 
 日本政府と軍部は米英の反撃はないと楽観視していた。だがアメリカは日本の進駐を「侵略」と断じ、26日に在米日本人の資産を凍結。8月1日には対日石油輸出の全面禁輸を実行に移す。当時の日本は石油輸入の80%以上をアメリカに頼っていたので、まさに大打撃であった。
 イギリスとオランダも続いて禁輸を発表し、「ABCD包囲網」という経済制裁網が構築された。ABCDとは、アメリカ、イギリス、中国、オランダの英語表記の頭文字を合わせた名称だ。日本の資源持久と安定を目指したはずの進出が、逆に国を窮地に追い込んだのである。

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