太平洋戦争はこうしてはじまった㉕

軍縮条約がもたらした統帥権干犯問題

 
「統帥権」とは、軍部の作戦や用兵を統括する天皇の大権だ。大日本帝国憲法第11条において「天皇ハ陸海軍ヲ統率ス」とあるように、戦前の日本では天皇が陸海軍の統率者に位置付けられていた。実際の軍事は陸海軍の上層部が輔弼していたが、軍の指揮権が内閣から独立していたことになる。この統帥権の独立が問題となったのが、ロンドン軍縮条約締結の直後だ。
 1930年4月22日、国会の第58回特別議会で野党政友会が条約締結を「統帥権干犯」だと批判した。簡単に言えば、軍縮を決定する権利は天皇陛下が保持する統帥権の範疇なので、政府の条約締結は天皇大権の侵害だ、と主張したのだ。
 政友会は内閣与党を打倒すべく、条約に否定的な海軍軍令部や枢密院の勢力と結託したとされている。実際、加藤寛治軍令部長は野党に呼応して条約への批判を強め、元老西園寺公望の秘書原田熊雄も、加藤の裏に海軍過激派や枢密院の協力があることを日記に記している。さらには長老格の東郷平八郎元帥と伏見宮博恭王大将も反対に転じ、各方面が条約破棄に連携したのである。
 その一方で、軍政を司る海軍省は条約に肯定的で、海軍内で条約を支持する「条約派」と反対する「艦隊派」の派閥抗争が激化。昭和天皇も賛成派に回り、主要新聞も条約歓迎の社説を掲載した。そうした世論の後押しもあり、条約批准は議会で承認された。
 6月10日には海軍の軍事参議官会議も賛成を決議し、枢密院も内閣の強硬姿勢で10月1日に諮詢を認めた。そして艦隊派の加藤軍令部長と末次信正次長、条約派の財部彪海相と山梨勝之進次官などが更迭・左遷となり、条約を巡る抗争は喧嘩両成敗として決着。こうしてロンドン軍縮条約は10月2日に批准が成立し、統帥権干犯問題は表向き終結する。
 しかし、11月14日には東京駅ホームで、浜口首相が極右青年の銃撃で重傷を負う(翌年8月26日に死去)。この事件で内閣は、翌年4月13日に総辞職となる。また、海軍では伏見宮が軍令部長に就任。条約派は予備役に追いやられ、吉次などの艦隊派が次々と復帰する。
 これは海軍内で強硬勢力が優勢になったことを意味し、1933年の軍令部条例改定の強行採決で、軍令部の権限も大幅に強化されている。これによって軍令が軍政を凌駕し、強硬意見が通りやすい土壌ができてしまったのだった。

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