太平洋戦争はこうしてはじまった51

近衛新体制と大政翼賛会の挫折


 第二次世界大戦序盤のドイツの躍進。それは三国同盟の推進剤となる一方、近衛新体制をも加速させていた。近衛文麿首相は大正時代より正義人道の思想を重んじ、日本が強国となるには国論統一が不可欠だと考えていた。そのために政党政治を改革し、あらゆる部門が統合組織化された体制の整備を目指したのである。
 第一次近衛内閣では中途で頓挫したが、ドイツ軍の快進撃を見た日本人は対英勝利を決定的として、米英中心の民主主義的秩序の崩壊と全体主義による新秩序の到来を予測した。そして、新体制構築を是とする近衛の復権論が、政府内外から巻き起こる。主な支持勢力は、全体主義思想を重んじる陸軍と、社会大衆党を含めた新党勢力だ。
 近衛は国防の充実と外交の刷新を重点とし、独伊を模範国とした体制再編を8月27日の声明文案で表明。体制再編とはつまり、国防国家建設のための国民組織結成と、あらゆる部門を一元化した「一国一党的体制」の構築である。なお、原文を執筆したのは近衛ではなく東京帝大の矢部貞治である。
 すでに8月23日には新体制準備委員の顔ぶれも発表されており、28日からの準備会にて具体案の審議に入った。しかし、軍部から右翼、財界人、政治家とあらゆる分野の人員をまとめた結果、会議では対立が横行する。また、新体制運動そのものも「共産主義的」「近衛幕府」と議会の反発も根強かった。
 こうした混乱の最中、10月12日に発足した組織が「大政翼賛会」である。組織は内閣首相を総裁とし、その下に中央本部事務局と各道府県や市区町村支部などを置き、国民全員を新体制運動に導入できる仕組みとなった。既存政党は新体制への早期参加が有利と判断して次々に自主解党。辛うじて保たれていた政党政治は、事実上終焉した。
 しかし、首相をトップとする政治体制は天皇主権に反するという違憲論争が発生。組織は翌年2月に政治活動を禁じられた「公事結社」とされた。その後の政治活動は関連団体を通じて行うことになるが、一国一党の近衛新体制構築は事実上失敗したといえる。
 なお、のちの対米開戦では軍部の決定を追認支援する組織として機能し、戦争遂行を下支えすることになる。このように軍部の意向に翼賛会が従い、下部の国民を指導する体制を「翼賛体制」と呼ぶ。

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