太平洋戦争はこうしてはじまった㊾

停滞する日独関係


 日本陸軍が対ソ戦略にて頼りとしていたのがドイツ軍だ。ナチス・ドイツ総統のアドルフ・ヒトラーは反共・対ソ感情が強く、1936年7月からのスペイン内戦でも独ソ義勇軍同士の戦いが発生していた。伝統的な親独派だった日本陸軍は、ドイツと組むことでソ連を東西から挟み撃ちにしようとしたのである。
 すでに1934年から大島浩駐独大使を通じた外交工作が実施されている。しかし当初のヒトラーは難色を示していた。日独は第一次大戦の敵同士であるし、旧植民地の南洋諸島の領有権をめぐる領土問題も抱えていた。そして日中戦争でも、ドイツは中国軍を支援していたのだ。
 この反日方針が転換されたのは、対日的な対応を取りすぎると日本が対ソ関係改善に走る可能性を懸念したからだという。かくして成立したのが「日独防共協定」だ。しかし、その実態は参戦義務のない緩やかな政治的協力協定だった。
 協定成立直後より、大島は軍事交流を通じた対独関係強化を進めていく。将来的な軍事同盟化を見越した行動だ。日中戦争勃発後1937年には本土の議題となり、板垣征四郎陸相は英仏をも警戒対象とした広範囲な防衛も構想している。
 一方のドイツも、協定後から親日方針に路線を変え、中国と手を切り軍事顧問団を引き上げている。これは中国がソ連と不可侵条約を結んだ報復でもあるようだ。そして1938年の秋頃より、日本に防共協定の強化を打診するようになる。この時点ではドイツ軍の準備が整っておらず、英仏を権勢する手段として協定を軍事同盟化しようとしたのである。
 1939年に成立した平沼麒一郎内閣では、同盟問題の会議が繰り返し開催された。だが、結論はなかなか出ない。賛成の陸軍に対し、外務省は対ソ同盟には理解を示したが、英仏開戦まで視野に入れた陸相案には反対を示す。海軍も対米感情の悪化を危惧する米内光政、山本五十六、井上成美の「海軍三羽烏」が中心となって同盟案に抵抗し、議論は遅々として進まなかった。
 しかしドイツは領土拡大を阻害する英仏への対抗を急務とし、対ソのみを問題とする日本の態度は論外であった。煮え切らない日本の態度にヒトラーはしびれを切らし、ついには1939年8月23日にソ連との不可侵条約締結に踏み切った(独ソ不可侵条約)のである。
 このドイツの心変わりに平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」と言い残して総辞職。陸軍も対ソ戦略の大幅な見直しを余儀なくされ、同盟案もこの時点では白紙となったのだった。

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