太平洋戦争はこうしてはじまった㉔

補助艦艇も制限されたロンドン軍縮会議


 ワシントン会議の建造規制は主力艦のみで、巡洋艦や空母などの補助艦艇は対象外だった。建艦競争の主役は補助艦艇に置き換わり、再度の艦艇削減が主要国間で検討され始めていた。1927年にジュネーブで開かれた日米英協議もその一環だ。
 しかし米英の対立で成果はなく、3年後にロンドンで再び軍縮会議が開催されることになる。この会議において、日本は元首相の若槻礼次郎を首席全権とし、海軍大臣財部彪、松平恒雄駐英大使を全権に加えて派遣。1月21日から始まった会議での日本の要求は、補助艦の総括比率対米7割、大型巡洋艦保有量の対米7割、潜水艦の現有トン数維持である。
 この条件は、海軍軍令部からの強い要請によるものだ。当時の海軍内では、アメリカ海軍に対抗するには戦力差7割が必要だとする風潮が強かった。海軍はワシントン条約で主力艦比率を6割に抑えられたので、補助艦は7割を確保したかった。そのため軍令部は、会議に先立ち三大条件の決定に関する御前会議の開催を求めたのである。
 ただ、浜口内閣は軍縮と財政削減を重視し、米英への譲歩も残していた。実際、元老西園寺公望は交渉の最低ラインを引くことをよしとせず、軍令部からの御前会議開催要請も拒否している。
 こうした流れの中で、ロンドン会議は幕を開けた。日本の7割要求は当然米英からの強い反発に晒される。日本側は松平全権を中心として粘り強く交渉を行い、約2ヵ月の会議の末に軍縮条件はまとまった。3月12日に作成された妥協案によると、日本の補助艦保有量は要求に近い対米6割9分7厘5毛、潜水艦は対米10割となる。大型巡洋艦は対米6割2厘3毛だが、建造中のアメリカ巡洋艦3隻の起工を遅らせることで、条約の期限内は事実上の対米7割を保つことになる。これに対して、駆逐艦と軽巡洋艦は対米7割を実現した。
 この「松平・リード案」締結について、政府と海軍省は受諾やむなしとした。浜口雄幸首相は3月27日に昭和天皇に拝謁し、「世界の平和の為め早く纏める様に努力せよ」との発言を賜っている。兵力不足を懸念する軍令部は31日に反対の上奏を決意するが、鈴木貫太郎侍従長の上奏中止勧告で断念。4月1日の首相との会談で兵力補充の努力が示されると、反対もこの時点では鎮静化する。海軍重鎮の東郷平八郎元帥も政府の決定を尊重し、妥協案は閣議決定を経て4月22日に調印されたのだった。

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