太平洋戦争はこうしてはじまった52

アメリカの反発と日米諒解案


 日独伊の急接近と日本の全体主義化は、当然ながらアメリカの警戒心を強めた。この態度をさらに強固にさせたのが、日本陸軍の北部仏印進駐だ。事の発端は1940年9月23日、日本陸軍が北部仏印(現ベトナム北部)への武力進駐を決行したことにある。
 三国同盟の調整が進むかたわらで、松岡洋石外相は駐日フランス大使シャルル・アンリと日本軍の仏印駐留協定を結んでいた。当時の仏印は米英が中国に支援物資を送るルートでもあったので、兵力を駐屯させて支援を遮断するためだ。「松岡・アンリ協定」というこの協定によって兵員駐留が合意されたのだが、現地のフランス軍は本国の決定に反発。日本陸軍は進駐を拒む現地部隊に業を煮やし、ついには武力進駐の強行に至ってしまった。
 この時、すでにアメリカ軍は対日圧力を強化しつつあった。進駐に先立つ同年5月には、本国の太平洋艦隊をハワイ真珠湾へと移動させ、日米通商航海条約失効によって特殊工作機械、鉄、石油製品の輸出を許可制にしている。そうした最中の武力進駐の強行により、アメリカは進駐の強行を南方侵略と判断し、10月に屑鉄の対日禁輸に踏み切った。
 その一方で、日米和平を目指す動きもあった。11月頃にカトリック教会のジェイムズ・ウォルシュ司祭とジェイムズ・ドラウト神父が来日し、産業組合中央金庫の井川忠雄理事の仲介で、日本の軍部・政界の有力者達と和平に向けての会談を行っている。表向きは民間活動だが、裏にはフランク・ウォーカー郵政長官の指示があった。
 二人は帰国後に交渉結果をまとめた「ウォルシュ覚書」を大統領宛に提出。日本も近衛文麿首相らの密命で翌年2月に井川を渡米させ、アメリカ首脳部の意向を報告させつつ、ウォーカーらと共同で国交調整案を作成させた。ここで完成したのが「日米諒解案」だ。
 1941年4月16日からの野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル国務長官の会談で提出されたその内容は、日米間の国家・国際観念の調整、欧州戦争と日中戦争の関係調整、通商の機会均等、太平洋の安定化と経済活動などである。三国同盟破棄と中国撤退を仄めかす部分もあったが、日本の軍部と政府は大いに歓迎した。野村は日本に不利な条件を本国に隠したのである。
 そのせいで、4月18日の大本営政府連絡懇談会でも受諾の方向にほぼ傾いていたという。だがこの諒解案に強烈な反対を示す人物も存在した。三国同盟締結の立役者、松岡洋右外相である。

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