太平洋戦争はこうしてはじまった㉝

立憲君主制が否定された天皇機関説事件


 大日本帝国憲法第一章第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、天皇は日本の統治者と解釈できる。ところが、第四条の「統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という条文に従うと、天皇は憲法の制御下に置かれてしまうことになる。こうした矛盾を解消するため、戦前日本では二つの説が立てられた。
 一つは「天皇主権説」。天皇を国家の主権とし、統治権は天皇本人に属するという説だ。主に法学者の穂積八束らが提唱した。対して、統治権は国家にあり、天皇は国家最高機関として最高意思決定権を持つとしたのが「天皇機関説」である。憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉が提唱したこの説は、デモクラシーブームを通じて大正時代から昭和初期までの憲法学の通説となっていた。昭和天皇もこの説を支持していたというが、国家改造を目指す陸軍にとっては都合が悪いものだった。1934年に配布された陸軍賛美のパンフレットへの批判も、面白くなかったようだ。
 1935年2月18日、機関説が突如貴族院で問題となった。菊池武夫議員が松田源治文部大臣と出版物検閲で議論していたところ、美濃部の書物を槍玉にあげたのである。「機関説は国体に背反する」とする菊池の批判は衆議院にも飛び火し、政友会代議士の江藤源九郎も美濃部を不敬として告発。倒閣運動に利用しようとした。さらには在郷軍人団体までもが批判に加わり、機関説撲滅同盟までもが結成されている。
 当初、陸軍は静観の動きを見せていた。林銑十郎陸相は機関説を「法理の問題」といい、不干渉の態度を取りかけたのである。だが、この対応を覆したのが真崎甚三郎教育総監だ。4月9日の会議の中で、機関説を「国体に相容れざる言説である」と全軍に公式訓示したのだ。この訓示によって全国的な批判が強まり、東京でも機関説根絶を目指すデモが頻発したという。
 初めは美濃部を擁護していた岡田啓介首相も陸海軍と世論の突き上げに負け、8月3日に機関説否定の声明を行った。10月15日にも声明は再度発せられ、議会両院も否定の決議を満場一致で行っている。天皇機関説は、完全に国会から排除されたのである。
 美濃部は議員を辞職し、著書3冊が発禁処分となる。この「天皇機関説事件(国体明徴運動)」で立憲君主制は事実上国会で否定された。そして「二・二六事件」での政府要人殺害により、軍部台頭はより加速することになる。

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