別役実『ホクロ・ソーセージ』を読む:笑うほかない喜劇

 3月になると、2020年3月3日に亡くなった別役実のことを思い出す。生前と変わることなく作品がコンスタントに舞台にかかっているから、別役の不在をあまり意識することがないのだが、もう3年が経過したのである。そこで、あらためて追悼の意味もかねて、没後に発見された幻の第1作『ホクロ・ソーセーヂ』を読み直してみたい。
 この戯曲は、2021年に早稲田大学演劇博物館で開催された別役実展の図録に採録されている。梅山いつきの解題によれば、別役が本作を執筆したのは1958年から60年にかけてのことらしく、戯曲として書かれる前の散文形式の草稿も残っているそうだ。もみじ荘という古いアパートの2階が舞台である。このアパートに住む肉屋の源八の妻がしばらく前から姿を見せなくなり、住人の間では源八が殺してソーセーヂにしたのではないかとの噂が流れている。当然、気味悪がって誰も源八の店のソーセーヂを買おうとはしない。この町の人たちはそれを源八への不当な迫害と見なし、アパートを取り囲んで抗議を始める。抗議がやがて投石にまでエスカレートしてゆく一方、アパートの住人が源八の店で買ってきたソーセーヂを調べてみると、切り口から源八の妻のものらしきホクロが見つかる、という筋立てである。
 A5判の図録に2段組で15頁に収まる短編で、2021年の東京乾電池による上演はだいたい40分ほどの長さだった。これから本格的な劇作に取り組む前の筆慣らしのような作品と見てよいだろう。ただ、本作には源八が妻を殺したと疑われるに至る背景や、町の人たちとアパートの住人との関係などが丁寧に書き込まれていないことをもって、別役の作劇術への理解がまだ十分ではなかったと考えるのは正しくないように思う。別役は早稲田大学の学生劇団「自由舞台」に入団して以来、ハウプトマンの『織工』をはじめとして、いくつもの公演に関わっており、1959年に三好十郎の『浮標』を上演したときには公演パンフレットに、精緻な三好十郎論(『悲劇喜劇』2021年7月号に採録)を寄稿している。条理に基づいたリアリズム戯曲の基本的な書き方は、すでに別役の頭には入っていたはずである。本作で登場人物の言動の背景が不明瞭なままになっているのは技術的な未熟さゆえではなく意図的であり、劇作家としての出発点に立った別役が当初から条理に基づかない戯曲、不条理演劇を志向していたためと見るべきだ。
 その後の戯曲に描かれるイメージや主題の萌芽も見られる。ソーセーヂの中に源八の妻のホクロを執拗に探すアパートの住人の姿は、本作の直後に発表された『AとBと一人の女』の結末でAのホクロをしきりに欲しがるBに重なる。また、投げ込まれた石が当たって腹を手で押さえている子どもに「腹に当たったのか」と尋ねると、その子が「お腹が空いた」と答えるところなどは、絶筆となった『ああ、それなのに、それなのに』まで別役作品の底を流れ続ける彼一流のとぼけたユーモアだ。一方、『AとBと一人の女』や『象』など初期の戯曲の特徴である詩的で長い独白は『ホクロ・ソーセーヂ』には見られない。別役が鈴木忠志と袂を分かった後、独白文体から対話文体へと移行を図ることを考えれば、中期以降の別役はむしろ原点である本作に帰ってきたとも言えるかもしれない。
 あと本作で注目したいのは、アパートの住人に敵意を向ける町の人たちの描かれ方だ。彼らは舞台には姿を見せず、マイクを通して声だけが聞こえる。その口調はきわめて生硬で観念的だ。『別役実の世界』(新評社、1982年)で、鈴木忠志がこの劇のことを思い出しながら粗筋を「全学連が出てきて、それは肉屋の生活権の侵害だといってデモをしたり」と紹介しているのも、もっともである。町の人たちの言動に、1960年安保前後の政治運動が反映されているのは明らかだ。
 しかし、このように解釈しただけでは、劇の構図に割り切れない部分が残る。町の人に投石されるほど敵意を向けられるアパートの住人とは、いったい何者なのだろうか。全学連が批判した日本政府、あるいは日本共産党指導部のように、彼らが憎まれるに足るほどの権威を持っているようには提示されていないのである。
 興味深いことに、梅山いつきが解題で、戯曲となる前の草稿の段階では、アパートは「異人種の居留区」に立っており、住人は「愛国者」と呼ばれる元軍人とその家族となっていたと指摘している。また、内田洋一も『別役実の風景』(論創社、2022年)で、草稿ではアパートで「月曜日にお風呂をわかし、火曜日にお風呂に入る」というロシア民謡の「一週間」が歌われると記している。このような設定が想起させるのは、植民地の、それも別役が生まれた満州の風景である。突然、町の人たちからぶつけられる憎悪には、別役の終戦時の体験も重ね合わされているのではないか。
 別役より5歳上で、現在の北朝鮮に生まれた後藤明生という作家がいる。『アミダクジ式ゴトウメイセイ 対談篇』(つかだま書房、2017年)に収められた別役と後藤の対談は、お互いの植民地での敗戦体験について語り合うところから始まる。後藤が敗戦を「原因不明の状況にポーンと投げ出された」感じだったと言うのを受けて、別役はそのような戦後の混乱の「全部がパッと喜劇に見えた」と発言している。「価値の転倒」を目の当たりにして、「もうどうしようもなくこれは喜劇なんである」と感じたのが、彼が「笑い」ということを考える最初のきっかけだったそうだ。ここで別役の言う喜劇はたんに面白おかしい喜劇ではない。もう笑うほかない絶望的な喜劇である。町の人たちの投石により、もみじ荘が廃墟となって幕が下りる『ホクロ・ソーセーヂ』に、別役が「喜劇一幕」という副題をつけた意図はこの辺にあるのだろう。
 ただし、別役は政治劇を書いたわけでもない。幕切れで、バーテンが空室となった部屋のドアをしきりにノックし続ける。彼はこの部屋に住んでいた女性ダンサーに思いを寄せていたらしい。型に嵌った空疎な言葉に扇動された石には簡単に壊れたアパートだが、心の奥底からの叫びとともに打ちつけられる拳にはびくともしない。この不条理こそが、後に日本における不条理劇の第一人者となる別役実の出発点だったと思う。

【附記】本稿の内容は、2022年8月の東京乾電池による『ホクロ・ソーセージ』の上演の折に、演出の柄本明氏と筆者が行なったポスト・パフォーマンス・トークの内容と一部重複している。また本稿の最終段落の考察は、その公演でバーテンを演じた前田亮輔氏の演技に触発されたものである。別役実のこの魅力的な戯曲について考える機会を与えてくださった柄本明氏および東京乾電池の劇団員のみなさまに謝意を表したい。


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