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Dear Mr.Songwriter Vol.18

佐野元春
1987-1988


オリジナル•スタジオ•アルバムとしては6枚目にあたる『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』をリリースするまで、前作『Café Bohemia』から2年6ヶ月の期間がありました。
そこで今回は、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』の制作に取り掛かるまでの期間は重要だと思うのでその過程を駆け足で遡っていきますね。


Café Bohemia Meeting

『Café Bohemia』リリースの少し前の1986年10月から1987年5月まで7ヶ月におよぶ全国ライヴ•ツアー《Café Bohemia Meeting》を開催。


99ブルース

1987年6月3日には12インチシングル「99ブルース」をリリース。
99ブルース」はニューヨークでジョン•ポトカー
フリップサイドの「月と専制君主」はロンドンでナイジェル•グレイがミックスを担当した。

99ブルース 裏ジャケット

基本的には"好きなようにやれよ"って投げ出します。タイトルの意味くらいは教えるけど。その方が逆に自分では予想しなかった結果が出てきて面白い。たとえば「月と専制君主」の"歩いてゆこう"という部分が"るいていこう"になったりする。彼らは日本語がわからないから、目立つところだけピック•アップしてミックスするわけ。僕はそういうアクシデントもまたリミックスの面白さだと思う。

GB 1987 

7月から仙台、北海道、広島、大阪、福岡、名古屋を回る《Café Bohemia6大都市Meeting》として大都市を回るツアーをしています。

Café Bohemia 6大都市ミーティング
プロモーション資料


ALIVE HIROSHIMA1987-1997


その間の、8月5日には、広島平和コンサート《ALIVE HIROSHIMA 1987-1997》に飛び入り参加して、ハートランドのメンバー、ギターの長田進とキーボードの西本明の3人で「99ブルース」と「シェイム」を演奏しました。

このALIVE HIROSHIMA第2回の1988年にはPEACE BIRDS 88 ALL STARSという名義で「君を守りたい」というシングルがリリースされる。このレコードでは、冒頭の"Oh My Sweet Girl   恋をした夜はいつも眠れない そんな時は 逆立ちをして 青い地球 持ち上げるのさ"というパートを担当している。作詞はエコーズの辻仁成 作曲はレッド•ウォリアーズの小暮武彦。
YouTubeで検索すれば見れますね。

BEATCHILD

そして、もうひとつのトピックとしては、8月22日から8月23日に熊本で開催されたオールナイトイベント《BEAT CHILD》ここで元春は大トリを務める事になる。大雨の中、強行で進められていくこととなるこのライヴ。早朝の元春の出番の時に雨が上がったという。ここで演奏された「ストレンジ•デイズ」ではエコーズ辻仁成シェイクス黒水兄弟も同じステージに上がっています。

後の2013年に、この時の様子の模様を収めたドキュメント映画『ベイビー大丈夫かっBEATCHILD1987』が公開された。ちなみにBEATCHILDという名称は元春が考えたもの。

ベイビー大丈夫かっBEATCHILD フライヤー
映画公開時の特典のレプリカチケット

1987年というと、第2次バンドブームの時代、《BEATCHILD》のトップバッターを務めたブルーハーツがメジャーデビューした年でもある。確実に新しい世代が台頭してきていた。そこで、「新しい世代のリスナーは僕の音楽を楽しめるのか」と改めて自分の音楽を模索し始める事のきっかけになったという。

Yokohama Stadium Meeting

9月14日、15日の2日間には横浜スタジアムに於いて両日合わせて7万人を集客した《Yokohama Stadium Meeting》が開催される。
この模様を収録したライヴアルバム『ハートランド』はVol.16で取り上げています。

横浜スタジアムのライヴが終わった後、「次に何をやったらいいか分からなくなった」と語っています。

僕とハートランドは8年間ずっと一緒に活動してきたわけですけど、横浜スタジアムでの"カフェ•ボヘミア•ミーティング"を終えた時、ひとつの満足いく結果を得ることができたという実感がありました。同じ仲間でやれることは全部やってしまったという気持ちになったんです。で、その後1ヶ月ほどの間、自分がこれからどんな音楽をやったらいいのか、どっちの方向にいったらいいのかということが分からなくなった。そんな気持ちになったのは初めてのことで、自分でも不思議だったんだけど••••••。それで自分の隠れた可能性を探るために、いろいろなところを旅したり、人に会ったりしました。

週間FM 1989
文 渡辺 亨

そして、横浜スタジアムの前後には、アメリカやUKでもプロデューサーやエンジニアのパイプを持っていた〈アイランド〉レーベルの担当者の吉成伸幸氏とアメリカLAに行き、プロデューサーを探していたらしいですね。

この間は前回Vol.17で触れているハートランド•セッションを年末まで。AJIレーベルのプロデュースなどの活動をしています。

インディビジュアリスト

11 月21日に12インチシングル「インディビジュアリスト」をリリース。
このリリースをもって1986年4月から継続していた"カフェ•ボヘミア•プロジェクト"が終了します。

PISCES TOUR

そして12月から翌年1988年の5月まで"PISCES TOUR"と題した全国ツアーを開催しています。
このツアーはアルバムのプロモーション•ツアーではなかったので、レコーディング中の新曲、SYSTEM (愛のシステム)Friend (風の中の友達)やピアノの弾き語りのコーナーなどもありました。
ちなみに自分が初めて行ったライヴでもあります。
Vol.0に書いてあるので、もしよかったら読んでくださいね。

年が明けて1988年の4月には、初のライヴアルバム『ハートランド』をリリース。

この年1988年の6月にはこんな記事が掲載されています。

1988年6月21日 朝日新聞夕刊

8月にはシングル 警告どおり 計画どおりをリリース。

the REDS     元春 いまみちともたか

"ダビングを好きにやって"って言われてフレーズを弾いていたら"いまみち君、それいいね"って。"本当に!?" "その上に同じのオクターブ上で重ねてみない?" "えっ!?"っていうのでやってみたらカッコいいなってなったり、サビのところでトップだけ弾いていたら、"いまみち君、それ下もあると面白いね"って言われて、"あぁ、なるほど•••"みたいな。

 音色はお任せだった感じですか?

そうそう、一回やってみたら"いいね、いまみち君"みたいなさ。 
 ああいう空間系が欲しかったんでしょうね。
どうなんだろう?いや、もっと出たものを使ってみよう感があったんじゃないかな。何が出てもちょっとそれに対応してみようみたいな実験精神があったような気がする。全員試されているというか、the REDSは後輩的な感じだったから俺が引っ張らないといけないんだけど。皆頑張って、"ほら、全力出さないとダメだよ"みたいな、あの使い方は上手いよね(笑)。今聴くとかっこいい演奏だなって思うんだけど、やっている時はこれはポップでもないし、爪痕残せたんだか残せないんだか•••録り終わった後は思っていて。なんかね、もしかしたら間違っているかもしれないけど、ああいうクリックの使い方をしたのはわりと佐野さんが早い方じゃないかな?当時の結構流行りのクラップとキックの音を一緒に出しているんだよね。なんか活発にやりとりはしていたけど、凄くお互いクールだったな。その中でさっきのオクターブを重ねて欲しいっていうのが強い印象として残ってる。"あ、この人はちゃんと出来上がりのサウンドを考えているんだ"っていうね。

Player 2021 No.663
いまみちともたか Interview KAZUTANA KITAMURA 

佐野 とにかく、ハートランドと離れて心にポッカリ穴が空いた感じがあって、でも何か動いていたい、その中から何かヒントを見つけられればと思って、あのシングル盤を2日で作ってしまった。あのレコードは僕の今までのキャリアの中で知らないミュージシャンとセッションして作った初めてのものなんだ。とにかく何か動いていて、そこから自分がエキサイトするもの、次にエキサイトするものを見つけようとバタバタしていた時期かな。
ーそこで見つけた?
佐野 見つけたいと思った。あのセッションは楽しかったよ。でもそれ以上のものじゃなかった。ただB面に「風の中の友達」という、ハートランドと一緒に録った曲がある。僕はその時ホントのことを言うと、ハートランドを解散しようと思ったんだ。その気持ちはその曲の詩の中に託したんだけれども。でも人は誰でもそうだと思うけれども、何か新しいものを探して右に行ったり左に行ったり迷っている時は、なかなか正しい判断ができない時がある。すぐに答えを掴みたいと思っても、なかなか掴めない種類の答というのがあるんだ。僕はなかなか手に入れるには時間がかかるその答を、すぐにでも手にしたいとあせっていたんだ、きっとそのシングルのセッションが終わった後、まず僕がしたことは、音楽を作ることではなくて、長編詩を書くことだった。今「SWITCH」に連載している散文詩があるんだけれども、それをやみくもに書き始めた。書かれている内容より書く行為の方が大事だった。というのはもっともっと自分をよく知りたかった。それからじゃないと次の自分の、音楽での新作はできないと思ったんだ。

週間FM 1989 インタビュー 今井智子


エーテルのための序章

1988年の8月21日放送の元春がDJを務めるラジオ番組"AJI FM SUPER MIXTURE"で散文詩を書き始めたと報告があった。それは雑誌Swichにおいて『エーテルのための序章』という形で連載することになる。この詩は東京だけではなくLAやロンドン、ニューヨークの旅先で書き綴ったもので、いろんな角度から自分を見つめ直すことができたという。それは1990年に書籍として『ハートランドからの手紙』にまとめて記載された。その中で次のアルバムの制作の手掛かりを発見していくことになっていった。

ポップスという形式の中で、どれくらい独自の表現を追求できるか。作家としては非常にやりがいがあるけれど、ある種の窮屈さも感じる。ポジティブな表現ばかりに明け暮れていると、もっと自由になりたい、制約をはずしたい、という気持ちが生まれてくる。そんな時、「エーテルのための序章』のような、音楽とは切り離されたところでの文字表現によってバランスをとる。今も作曲作業と並行して、活字としての詩を書いているんです。

時代をノックする音 佐野元春が疾走した社会 山下柚実

ジョン•レノン ロックンロール

そしてロンドン•セッションに入る前には、ジョン•レノンのアルバム『ロックンロール』をよく聴いていたという。

ジョン•レノンは時代に合わせていろんな音楽をやってきて、それであるとき、原点に戻る意味であのアイデアをフィル•スペクターに話して、あの作品を完成したわけでしょ。彼はね、あのアルバムのジャケットの片隅に、彼一流のユーモアだと思うけど、こうクレジットをつけたんです。「君はここにいるべきだったんだよ」って(笑)。もし森で迷ったら、いったん家に戻って、それから歩きはじめるでしょ。ジョン•レノンの『ロックンロール』に関してはそんな感じで聴いてたのかな。

FM STATION 1989 no.7 
インタビュアー 小貫信昭
John Lennon
Rock'n'Roll 1975
裏ジャケットに書かれた文
"You Should Have Been There"
Dr.Winston O' Boogie

ロンドン•レコーディングへ

そして、原点回帰ともいえるロックンロール音楽が本来持っているシンプルな快活さを追求することと、創作の場を圧倒的に変える事によって得られるものを探すため、ロンドンでレコーディングが開始される事になります。

今回はここで終わりです。最後まで読んでくれてありがとうございます。
♡とコメントは随時受け付けてます。
では、また!!

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