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優劣で何かを決めてしまいがちなときに意識したいこと~漫画『宇宙兄弟』南波六太の台詞を題材に~

〈はじめに〉


こんにちは。

前回も『宇宙兄弟』を題材に記事を作成したのですが…記事の作成にあたり、改めて物語序盤の「宇宙飛行士選抜試験」編を読み返して、良いストーリーだなと思ったので、今回もこれを題材にしようと思いました。

https://note.mu/take5_db/n/n5a37d1b26bbd

※どういった作品かも、簡単な説明を載せています↑

今回は主人公である南波六太(ムッタ)の台詞から、少し考えてみたいと思います。


〈試験にいたるまで〉


ムッタは自動車の設計の仕事をしていたが、上司に弟の日々人(ヒビト)を揶揄されたことに怒り、報復。その結果、会社をクビにされてしまった。再就職にあたり、ひそかに母親がJAXAに願書を送ったことをきっかけに、あこがれはありながら諦めかけていた宇宙飛行士選抜試験にこぎつける。

そこで面接、身体能力測定などの試験を何とかパスし、最後の試験として用意されていたのが、「密室での共同生活」だった。

2週間のあいだ、与えられた課題をこなしながら、5人の班員が宇宙ステーションを想定した密室で共同生活を送る。ただでさえ密室での生活は心が不安定になりやすいなか、分担された役割、限られた食事の配分、各トラブルへの対処など、集団として自営することが求められていた。

そして最後の日に、班員の全員の合意のもとで5人のうち2人、「宇宙飛行士にふさわしい人物を選ぶ」という試験になっている。(選ばれた人だけが確実に合格、というわけではないのだが、)参加者すべてが大切なものを賭けて臨んだ試験。誰しもが選ばれたいと願う一方、試験を無事乗り越えるためには、ある意味「敵」でもある班員との協力が求められていた…


〈ふさわしい人物の選びかた〉


こうした葛藤のなか、皆が結果を認められるような「公平な方法」、すなわち課題の出来や点数によって、順位をつけて決めようとする班が現れる。

宇宙飛行士にふさわしい人物を決める方法はそれぞれの班に委ねられており、点数化することで誰から見ても正しい評価で選ぶことは、一般には試験において間違ってはいない方法になる。

そんな中で、ムッタはじゃんけんで候補者を決めることを提案する。

この最終試験の結果によって、今後の人生が大きく左右される。
大きなあこがれを持って臨み、艱難辛苦を乗り越えてやっとのことで迎えた最終試験、その選抜方法としてのジャンケンは、これまでの過程をあまりに蔑ろにしている印象を受ける。


〈今回扱いたいムッタのセリフ〉


それを承知でムッタはジャンケンを提案する。
その際のセリフが以下のもの。

みんなジャンケンみたいなもんだ。
グーみたいな奴もいて、チョキみたいな奴もいて、パーみたいな奴もいる。
誰が一番強いか、答えを知ってる奴いるか?

もちろん、馬鹿げている!と班員からの否定の声もあったが、ジャンケンを超える公平な手段はない、との発言もあり、皆がジャンケンに参加した。

ムッタの班に集まったメンバーは全員強い情熱を持って参加しているが、50代で先のキャリアが短い人物もいれば、課題の点数がふるわなかった人物も。将来性(身体的な優劣)や、課題の評価の面からみれば自然とチャンスが失われてしまうメンバーがいた。

選抜方法をジャンケンにすることですべてのメンバーがチャンスを得ることができ、それと同時に、あるメッセージを皆が受け取っていた。


〈まとめ〉


ジャンケンを提案することで、

「人間の誰もに優劣をつけることはできない」
というメッセージを読者に伝えながら、
「楽しかった2週間を楽しい5人のままで終わりたい」
というムッタの願いが班内に発信されています。
(そしてそれが伝わったからこそ、皆がジャンケンに承諾しています。)

皆が宇宙飛行士になることへの強い願望を持っていることは一緒。でありながら、さまざまな思いや境遇を抱えている人物どうしが集まっている。ここには点数化できないものが確実に存在しています。

点数化できるということは、そこを万人から見て「公平な」評価項目として用意しているということ。

しかし、評価されないところに、その人の人間性を形作っている「固有の何か」があって、「固有の何か」は万人が見て、感じて理解できるとは限らないのです。(だからこそ評価ができない。)


さて、ここで言いたいのは、
他人と関わるとき、あるいは自分を見つめるときに
(うっかり優劣で判断しそうなときに、)
フラットな目線
を持っていたいということです。

ある面での成績や、数値化できる何かしらのポイントを見て
相手に感心するのも一つの認め方ではありますが、
純粋にその人に対して感じたことを大事にしていきたい、
と思い、以下綴ります。

周りや世間の評価がどうあれ、
自分で認められるものをもっていたら、
その相手を素直にほめたり、
受け入れられるようになりたいものです。

相手のそのことに気づいているのは、
もしかしたら自分だけかもしれません。

また、学校のなか、社会のなかであちこちに評価があり、
そこで認められないことは、その環境に居続けようとする
人間としてはとても苦しいもの。
自分が受ける評価に、時に苛まれることもありますが、
それは万人から見た、万人からしか見られないもの。

上述した、自分に対しての素直な意見を受けた際に、
そこから、自分らしさに新たに気づけたら幸せですよね。
そうした言葉をかけてくれる存在は大事にしながら
自分もその言葉をかけられる存在になりたいものです。


〈おわりに〉
こうしてジャンケンで選抜を行ったムッタの班だけが唯一、試験を終えた後日、全員で再開する場(打ち上げ)を設定しています。

会では誰一人結果に不平を言ったり悲しんだりすることなく、選ばれた二人を祝福する、とても楽しげな場面が描かれています。

これは数値化された評価以外の面を大事にできたからこその結果なのでしょう。言い換えるなら、評価項目として設定されたポイントによって相手を見る目が絞られることなく、共同生活を通して素直に感じた印象を大事にし、極めてフラットな目線でお互いが最後までいられたからこその結果ではと思うのです。

それが作中の「楽しい5人のまま」という状態なのだと思います。

もちろん現代社会のあちこちで、数百、数千と人が集まる中、評価なしには判断を下すことはできないですし、深いかかわりを持っていない人物と生きる中、評価を受けることは避けることはできません。

しかし、スタンスとして、素直に、自他ともに持っている「固有の何か」を大事にすることは、心掛けたいなあと思うのであります。

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